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2006年5月 7日 (日)

エクスペリエンスな5月

20060506img_3187 ■谷口正和氏、アナログイマジネーション(5月1日)

■室長ブログ①、雨の九十九里は、白里想雨(5月5日、フローレ21らしさの発見、社内仕入情報共有)

■富山花まつでのレンさんのアレンジ(かすみ草)4月30日

■ナガオカ日記、5月2日、デザインの本

20060506img_3832 ■盛岡タイムスは木村さん情報、、、、シナシナPOP 5月5日

■フロレッタちゃんの再利用法、、、、T J 5月6日

■スタッフ(店員)向けの学習会、、、、花の仕事屋日記5月3日

■内容充実な室長ブログ②、、、人間関係への種まき、、、軽トラ日記(世田谷花きの宮西室長)

20060506img_3196 ■生産プロフィールと取引先、、、鹿児島県経済連

イズミヤ総研

エフピコの売場提案

吉田繁治

■風力は良いとは言えませんが、ホールフーズの戦略(米)

20031106pnk1s半農半×的暮らし

ファーマーズ・マーケット

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■内山節→豊かな森のために(2005年)

臨床自然学、社会デザイン学

■群馬 一郷一学

 コミュニティーには、人と人のコミュニティーと、人と自然が、ひとつの空間を共有することによって生まれるコミュニティーとがある。現在の社会は、そのどちらもが、こわれかかっている。それは社会現象のなかにも現われてきていた。農山村の過疎化はなおつづいている。そのうえ、いまではどこの都市でも、中心市街地の空洞化がすすみ、さびれていくかつてのニュータウンの問題も深刻になってきた。こうして、地域の空洞化という問題が、農村、都市を問わず、社会の一般現象になってきた。
 人間たちが何となく所在を失なって生きている現実と、地域が空洞化していく過程には、共通する原因がひそんでいるのではないだろうか。コミュニティーがこわれていく、あるいはコミュニティーが未成立であるという原因が。
 「一郷一学」は、このような現実をみすえるところから提唱されたのではないか、と私は思っている。
 コミュニティーは、つくりだすものではなく、生まれるものである。人と人、人と自然がひとつの空間=社会を共有し、そこに共有された世界を感じるとき、この世界のなかに生まれているのがコミュニティーである。それがコミュニティー形成のむずかしいところで、人と人が協同して自分たちの地域をつくろうとし、人と自然が協同して地域を支えるとき、そこに自然につくられていくのがコミュニティーなのである。
 とすれば、コミュニティーが生まれていく核になるものを、創造することはできないか。この「核」を、地域の人々が共有できる「価値」といってもよいし、地域の自然と人間が共有する「価値」と表現しなおしてもよい。共有できる「価値」を地域、地域に創造しながら、それをコミュニティーが生みだされる「核」にしていく。この「核」づくりが、「一郷一学」である。

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