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2006年5月20日 (土)

優れた経営とは

  2006年5月19日(金)夕方、自動車のブレーキ修理を待つ間に、ディーラー事務所で、哲学者の内山節『創造的であるということ(上)農の営みから」(農文協の人間選書254、2006年3月刊、1700円)を読んだ。20060519img_5209

 いくつか自分が考えている世界と重なるところ、違うところ、学ぶところがあった。著者は、なぜそのように思索し結論に至ったのか?を考えながら読んだ。以下本書より

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 農の思想については、アメリカには農民はいない、産業があるだけだ、としている。農業は産業であるべきか?という問いだ。労働についても考えている。

 「半商品」の思想を提案している。商品から半商品への転換をだ。そこに地域農業の可能性を見ている。

 無事、ということを言っている。

 時間価値、そして地域・ローカルな思想から、思想と風土・思想と技・思想と文化でまとめている。

 第2次大戦後に日本は農村の民主化ということが、農業協同化論が近代化であるような取り組みをしてきた。しかし国営化・協同化をすすめた旧ソ連などの農業の失敗もあって、農業は家族単位で営まれるのがいちばんよいのではないか?という考え方が強まってきている、という。20060519img_5221

 家族経営と、結(ゆい)のようなかたちで伝統的に創り出された協同労働、助け合いの結合が、営農のうえでは、もっともすぐれたかたちだろう。

 かつては家の技術であったものを、地域の技術として受け継ぎ、継承させながら、そのなかに新しい農民をも受け入れていく努力が必要になる。家の継承なき農業と農民の時代を考え出さなければならない。

 日本の伝統的な家には「居住空間」としての居間と、「仕事空間」の土間、「接客空間」としての客間がそろってこそ家であった。それは分けられないものとして存在していた。20060519img_5225

 農地もまた同じ空間、仕事空間でもあり、生活の場でもあり、近所や誰かたずねてきたときの接客空間になる。接客といっても村人のコミュニケーションが中心。生活・労働・接客が分離できないかたちで連続的に実現しているからこそ、地域社会が成り立ち、農家の労働が結などの地域の協同労働に支えられる。

 そこに農村風景がつくりだされた。風景とは半分は自然がつくりだし、あと半分は農村の暮らしの長い時間的蓄積がつくりだした。家の中に一歩入ったとき、そして農地や山の姿のなかに、生活と労働と接客が一体となりながら築かれてきた農民の知恵や技術が感じられる、そのとき、そこに農村風景を感じる。

 第1に農民の営みはどこまで拡大できるかを考える。農業という産業があっても、農民の精神の習慣は存在しなくなる。20060519img_5330

 第2に、現代的な生活と労働と接客が一体となった暮らしとは何かも考える。ここに都市と農村、山村との交流が入ってくる。都市の人々を接客することではない。生活・労働・接客が分離できないかたちで一体化している世界のなかに、都市と農村・山村の人々の交流をつくりだす必要性がある。

 別な視点からみれば、貨幣の獲得に寄与しない農業があってもよいことを示している。お金にはならないけれど、土を耕し、作物を育て、その行為を通して自然と人間の相互の助け合う関係を築きながら、生活・労働・接客が一体となった場をつくる、、、そのことを楽しく営んでいく農業があってもよい。(クライン・ガルデンや市民農園)人々が農の営みを生活のなかに回復していこうとする動きは強まる。454005308601_1

 

 

 

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