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2006年5月10日 (水)

わかりかた

 20060506img_3417 『本』2006年5月号(講談社、80円)。このところ、巻頭の大澤真幸の「ときの思考」が連載20回になった。この写しは一時、マツヤマさんに差し上げたりした。さて、巻末には、禅宗の曹洞宗の開祖・道元の『正法眼蔵』をよむ特集がずっと組まれている。会津地方には北陸に本山がある曹洞宗(そうとうしゅう)という仏教の一派の寺が多い。昭和村にも曹洞宗門徒は多く、我が家もその檀徒である。

 菅野覚明・宮川敬之 往復連載『眼蔵』をよむ 第一部「仏性」巻の第36回は「無仏性が成仏に直結する」(菅野覚明)。

 64ページに、

 もし仏性を財を成すための元手のようなものと捉えるなら、修行は財産を殖やすための事業、成仏(悟り)とは積み上がった財産に相当する。この場合、仏とはさしずめ宇宙一の大金持ちということになろう。道元が否定するのは、まさにこの元手(仏性)→事業(修行)→財産(成仏)という構造そのものである。Img_3931

 元手→事業→財産というプログラムに乗っかって仏道をもとめる「十聖三賢」は、そのそも、仏性をどう位置づけるかという捉え方そのもの(仏性の道理)を誤っている。というのも、悟りというのは、そもそも所有される財産のようなものではないからだ。

 悟(さと)りは、何かをすることによって得られた知識ではない。

 したがって、悟りを可能ならしめるところの仏性もまた、莫大な財産(知識)を得るための元手となる知識や能力などではない。

 悟りとは、正しく知ることである。Img_4075

 それは、知られたものではない。だから、悟りは、知ること、知る働きを離れて別にあるわけではない。その意味で、悟りとは、わかる営み、わかり方そのものである。そのような悟りを可能にするもの(仏性)もまた、正しく知ることと別のところにあるわけではない。正しく知ることを成り立たせているのは、正しく知るその営みに他ならないからである。、、、、、、(略)、

 正しく知る営みとしての修行の形においてのみ存立する。そこで道元は、仏性と悟りとは、修行という形で一緒に成り立つ(仏性かならず成仏と同参するなり)と言うのである。

、、、(略)すなわち、仏性とは「無」なのである。

 悟りを、手に入れた財産のようなものとしてとらえていたなら、「仏法」は到底今日まで伝わることはなかっただろうと道元は言う。

---菅野氏は東京大学教授・日本倫理思想史専攻

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