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2006年5月20日 (土)

時間の創造

 前述書209~211ページ。( )は読み手の私の感想など。20060519img_5404

 他者との関係のなかに存在しているとき、その他者と共同で私たちは時間を創造している。この時間は、はじめに客観的な時間があり、それを消費していくという個人的な時間とは異なっている。

 他者と一緒に、どんなふうに時間を作っていくのか、ということだと思うのです(ここで私は、ショーザフローレと店頭フェアを思い出した。IFEXとか、JFMAとかJELFAとか)。

 いまの都会の生活は、ひたすらお金を消費し、つまり貨幣を売り、ひたすら時間を消費する生活。つまり貨幣も時間も、底をつくまで消費するようになった。だからすごい不安が出てくる。底をついたらどうしようか、という恐怖。お金が底をつくことを破綻としてみているし、自分の時間が底をつくことはみたくない。20060519img_5403

 時間の消費は苦しい。

 ところが都会を離れて農山村に行ってみると、そこの高齢者には時間の消費者という感じが全然ない。他者との関係のなかで生きている。

 自然と一緒に時間をつくり、畑や山や村の人たちと一緒に時間をつくりながら暮らしている。だから時間は減っていかない。いつでもつくりだしているだけなのですから。(ここで私は、いつも働く、ぺろっとしてるわけにはいかない、、、、ただいるわけにはいかない、、、、ということを思う)。20060519img_5391

 他者と共同した時間の創造者になっていかなければならないのではないか?そう考えたとき、時間を創造する「場所」が再び視野に入ってくる。共同体という場所での時間の創造。そして他者との関係がつくりだす場所のなかで、どうやって共同の時間を作っていくのか(産地フェアは卸売市場の担当者・加工業者・バイヤー・生産者・消費者が店頭に一同に集まる場所を、共有することが大切だな、と思う)。

 生産者と消費者が結びつくということは、共同で、作物をつくり、それを使う時間を創造していくことでもある。共同で時間をつくりながら、相互的な交通のルール、習慣をつくっていく。この過程のなかで貨幣も用いられる。それができたら貨幣は権力としての近代的な貨幣ではなくなり、やりとりされる作物は、労働時間量によって価値を与えられた近代的な商品でもない。これまで貨幣や商品の地位を引き下げてきた。20060519img_5344

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 135ページ

 「半商品」としての商品には、使用価値の文化が生きていた。それが可能になったのは具体的な関係のなかでつくられたり、流通したりした商品だったから。

 たとえば職人は仕事を頼まれると、何時間かかったとか、コストに対して利益率が何パーセントかといった計算はあまりしていない。結果的に赤字になったとしても、具体的な関係のなかで依頼された仕事に応えていくことを優先させた。つまり使用価値がまず念頭にあり、具体的な関係がそれを求めさせている。20060519img_5395_1

 こうして生産行為としての労働は、文化的営みとしての労働という面をも、あわせもつようになる。

 有用性というのは、文化的なもので、関係のあり方によって価値量が大きくなったり、小さくなったりする(ここで、私は、フェアトレードのことなど、、、思い出す)。

 都市の賃労働に従事していても、賃労働の論理を超えたものをもって働いていると感じるときのほうが、働いている者はずっと幸せ。

 私たちは自分の労働量に見合った収入が上げられるかどうかなどどうでもよくなって、ただそれをしたいから、そうしなければいけないと思うから、その労働をするようになってしまうことがある。たとえば、農地、周囲の山や川という具体的自然と関係を結びながら働こうとするとき。

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 119ページ。

 半商品とは、市場では商品として通用し、流通しているけれど、それを作る過程や生産者と消費者との関係では、必ずしも商品の合理性が貫かれていない、商品。

 お金でやりとりされてはいるが、その面だけではみることができないものが半商品。

 たとえば、芸人や職人の世界。たとえば芸人は商品として売る、お金をもらうためにのみ芸をしているわけではない。自分の追求する芸の世界がある。20060519img_5274

 たとえば職人。自分の誇りにかけて依頼されたものをつくる。自分の納得するものをつくる。そのためにたいへんな日数をかけ、日当計算をすれば赤字になってしまうこともある。消費者もただ商品を買いに来ただけではなく、そういう職人のつくるものだから手に入れたいと考えている。つまりここでも商品でありながら、生産者も消費者も商品の論理だけで動いていないという関係が成り立っている。すなわち半商品の世界がある。

 「商品にあらざる商品」、商品のかたちはもっているけれど生産者と消費者の間に売り手と買い手だけでは割り切れない、文化的な関係が成り立ってる。

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 136ページ20060517img_5089_1

 つくり手はあくまで、使用価値の源泉みたいなものしかつくれない。ところが使用者だけでも使用価値は生まれない。つくり手が必要になる。つまりつくり手が源泉をつくり、受け取り手が使用価値を発生させる。しかも使用価値の量はさまざまな条件やつくり手と受け取り手の関係で変化する。このような関係的価値、つまりそのものがあらかじめもっていた固有の価値ではなく、関係のなかで生まれ、関係とともに変容する関係的価値が使用価値なのです。だから文化的な価値だともいえる。

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