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2006年12月30日 (土)

消費と創造

■内山節『農の営みから』(1996年、農文協人間選書) ~抄~20061230dsc02142

 商品の価値を決めるのは、その商品を生産するのに必要とした労働時間とみなすことによって、商品に合理的な価値を与えたのが近代的な商品経済だった。

 何をつくったではなく、何時間働いたかに尺度が変わった。

 職人労働の時代なら、見習いが10時間働いてつくったものより、親方が1時間働いてつくったもののほうがはるかに価値があった。労働の平準化がすすむと、誰が働いても、一時間の価値は一時間というようになった。

 少なくとも働く側にとっては、何時間働いたかが重要なものになりました。つまり何をつくったかではなく、何時間働いたかが労働になった。20061230dsc02120

 それは労働を時間の消費に変えました。そしてその時、工場のなかで消費される時間と、自分の裁量で消費する時間があらわれたのです。後者の時間は、生活の時間として生まれてきますが、この生活の時間を無駄なく、賢く消費することがよき生活者と評されるようになっていった。(208ページ)

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■他者とどんな時間をつくっていくのか

 他者との関係をどうするのかが、ポイントになってくる。

 たとえば、私たちは、自然との関係をつくりだしているとき、自然との関係なかで時間が生まれているという感覚をもつことができるでしょう。それは決して、1時間とか2時間とかという単位で計測される時間ではない。20061230dsc02124

 自然と人間の共同の時間が、いまここに展開している、というものです。

 他者との関係のなかに存在しているとき、その他者と共同で私たちは時間を創造している。ですからこの時間は、はじめに絶対的で客観的な時間があって、それを消費していくという個人的な時間とは異なっています。

 とすると、私たちの課題は、他者と一緒に、どんなふうに時間を創って行くのか、ということだと思うのです。

 いまの都会の生活は、ひたすらお金を消費し、つまり貨幣を売り、ひたすら時間を消費する生活になってしまっている。 20061230dsc02132

 つまり貨幣も時間も、底をつくまで消費するようになってしまいました。ですから、すごい不安が出てくる。底をついたらどうしようか、みたいな恐怖。お金が底をつくことを破綻としてみているし、自分の時間が底をつくことはみたくない。

 ところが都会を離れて(地方)の高齢者たちは、他者との関係のなかで生きている。自然と一緒に時間をつくり、畑や山や村の人たちと一緒に時間をつくりながら暮らしている。でずから、時間は減っていかない。いつでも、つくりだしているだけなのですから。

 私たちは、他者と共同した時間の創造者になっていかなければならないのではないか。そう考えたとき、時間を創造する「場所」が再び視野に入ってくる。共同体という「場所」での時間の創造。そして他者との関係がつくりだす「場所」のなかで、どうやって共同の時間をつくっていくのか。20061230dsc02138

 ある意味では、生産者と消費者が結びつくということは、共同で、作物をつくり、それを使う時間を創造していくことでもあるのです。共同で時間をつくりながら、相互的な交通のルール、習慣をつくっていく。この過程のなかで貨幣も用いられる。そんなふうなことができたら、貨幣はすでに権力としての近代的な貨幣ではないし、やりとりされる作物は、労働時間量によって価値を与えられた近代的な商品でもない。

 そんなふうにして、貨幣や商品の地位を引き下げていきたい(211ページ)。

 

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