偶然見たことの必然性を考える(いわゆる水車小屋事件)
■2008年9月19日(金)曇り。
■2008年9月6日(土曜日)、前日から福島県三島町の交流センター山びこで開催した会津学研究会の夏季講座には鹿児島県民俗学会の重鎮諸兄が参加されていた。午前、間方集落でのフィールドワーク終了後、引き続き下郷町大内宿、南会津町の奥会津地方歴史民俗資料館を訪問することになっていた。宿舎は金山町玉梨温泉恵比寿屋旅館で、前夜の夕食時にそのように決まった。
福島県立博物館の佐々木さんが自車にて全日程の送迎・案内をしていたが、来県者は6名いたため、奥会津書房の遠藤さん、赤坂さんなどが交替で自家用車を出して支援していた。昭和村佐倉のからむし工芸博物館、金山町中川にある資料館なども視察していた。最終日は私が車を出すことになっていた。
「カンケ君、やすひとさんは奥会津地方歴史民俗資料館に春から臨時職員でいますから、今日、会えますよ」、そのように佐々木さんは休憩した三島町の道の駅で私に言った。
「あ、そうですか?」
当初、南会津町の資料館を訪ねてから、帰路大内宿から会津本郷、若松と行く順路だったが、広域農道から会津盆地に出たころに予定が変わり、会津高田町伊佐須美神社から会津本郷、関山から大内宿に入った。峠のトンネル内は、まもなく雨が降るため結露して内壁がぬれていた。
同乗している鹿児島県人3人は「雨も降っていないのに、どうしてトンネル内が水でぬれているのか?」「地下水がしみ出してぬれているのだ、、、、」「・・・・・・・」議論になっていた。
「もうすぐ雨になります。トンネル内に水滴が付くときは空中湿度が高く、天気予報になります」
「・・・・・・・・・」
大内宿に付く直前に雷雨となった。駐車場の案内所から雨傘を借りて、大内宿の江戸時代そのままの街路を散策した。ちょうど午後4時になろうとしていた。南会津の資料館に電話をしたところ、午後4時が閉館ということで、結果としてここから湯野上温泉に出て、大川沿いに北上し会津若松市内に送り、この日の仕事が終わった。大川ダム脇の国道のトンネル内部も結露してぬれていた。
■9月16日(月)に上京する際、いつもは郡山駅から東北新幹線に乗車するのだが、この日は山王峠を越えて那須塩原駅から東北新幹線に乗車した。その理由は無いが、たまに行き来する道を変えることで、街道沿いの「楢枯れ」の進度を自動車を走らせながら見ておこうといつも考えていたためだと思う。8月盆に只見町から魚沼市に行き来したときも、新潟県境から大白川を過ぎたあたりから楢枯れが目に付いた。そして新潟側の墓地にはハナガサギク(ぼんばな)は見かけないが、奥会津の只見、南郷、田島は盆の墓参できれいに草が刈られているが黄色のハナガサギクだけは残していた。それを広域に街道沿いに見ることができた。
■昨年の9月5日午前に三島町生活工芸館で偶然目にした「ひろろのねほぐし(ヒロロの根ほぐし)」から「地域に根ざした植物(草)の歴史的活用」を調べ始め、第一報として「ヒロロの今」として八月発刊の雑誌『会津学四号』にて公表した。一年前に私がヒロロから感じた問題意識は次のようなことであった。
1.なぜいまもヒロロが使われているのか?
2.会津地方でのヒロロ使用の分布はどうなっているのか?
3.なぜ現在は雨蓑や山菜採りカゴなどに用途が限定されているのか?かつて縄文時代までの射程のなかでは多様な用途があり、それが稲ワラに代用されるようになったのではないか?奥会津では万能素材稲ワラの取得のためにイネの栽培がなされたのではないか?ワラ細工の奥(基層)にはヒロロに代表される地域の草・樹皮の利用が見えるのではないか?
4.残存する用途に、稲ワラは代用が出来なかったとすると、雨蓑やカゴの持つ社会的な意味は何か?
5.素材取得地(採取地)と、採取時期と、採取制限(やまのくち)、その場所の呼び名(地名)や乾燥方法、利用方法。そして地域呼称と植物としての学名。呼称に内包される植物学的分類はたぶん複数ある。
6.素材の利用法が、採取、乾燥、撚る。その過程に裂く、つなぐという過程を含まない植物(草)の利用法の歴史的な古さをみてよいのか?植物加工法には麻や苧麻(からむし)のように裂く、つなぐ(結ぶ)、撚る、、、という過程を経て布にする工程が一方で存在し、そこには「道具」が増える特性がある。植物体をそのままのかたちで撚る工程には、実はより高度な植物素材の特性の見極めが必要になる。
7.日常の人々の生活(庶民、生活者の生活)のなかで、誰でも体得していた植物を採取し乾燥させ糸になう、作業や、その採取時期の社会的な制限(やまのくち)が、植物の乱獲を防止し、かつその植物を干すことで作られた用具は長持ちし、永遠のいのちを与えることで、結果として植物の乱獲をさらに防ぐことにつながっている。このような地域生活のあり方(哲学)を指標にすることが地の草利用法で言い換えることが可能になるのではないか?その草は地域によって呼称が変わり、利用する植物自身が異なるはずだ。基層文化、地の草を利用する技術や哲学があったから、そのうえに麻やからむしなどの技術が成り立った。
8.資料館や公開の場での「細工実演」「体験学習」のなかでワラ細工、ヒロロ細工が行われている意味。
■9月17日(水曜)東京駅6時始発の東北新幹線に乗車し那須塩原駅で下車し、西口駐車場に停めていた車に乗り、山王峠から福島県に入った。道の駅の染めかすみ草やリンドウ、カラーなどの展示販売の様子を観察し撮影し、大川沿いに北上した。ここで、道路の看板を見て、9月6日にたどりつけなかった奥会津地方歴史民俗資料館(南会津町糸沢字西沢山)にまわってみよう、と左折しうさぎの森キャンプ場の駐車場に車を停めた。
時間は、開館したばかりで、事務所に「やすひとさんはいますか?」とたずねたけれども「館内にはいると思うのですが、、、作業をしています」ということで、移築された茅葺き民家群のあるところに行くと、収蔵庫前の広場にひとつの種類の植物がたくさん干されていた。
保存民家は戸が開けられ、いろりに火が焚かれ、60代の女性一人が座敷を掃き掃除していた。
その隣の水車小屋の前に、また60代の女性が一輪車を押していたのであいさつをして聞くと、この小屋のなかで作業している、という。裏手にまわり入ってみると、先ほど干された植物を竹竿に掛けている作業を4人(男性2人、女性2人)でしていた。
昨年春の只見町での会津学研究会春季講座で会ってから会っていないので1年半ぶりに渡部康人氏に会い、いまの作業を訪ねた。
「ガマ(蒲)の葉を干して、これで草履作り体験を、、、、来館者にいろいろな体験プログラムを提供しているのだけれど、新しいものを、、、、」
「町内の湿田、、、転作して耕作放棄された水田に生えたガマで夏に一回刈った後に出てきて葉」ということだった。
■事務所でお茶でも、ということで水車小屋から民家棟をたどって行くと、地元の人が作ったヒロロのバッグや蓑がある移築民家のなかにあった。実演や製作指導をしている地元の80歳代の男性が出勤してきて、あいさつした。やすひとさんに紹介してもらい、このTさんから少し話を聞いた。
「ここでは、自分は身近な沢にあるヒロロよりも、奥山にあるシバクサを採取し雨蓑を作った。そこにある雨蓑もシバクサで編んだ物だ。210日過ぎると採ってよい。しかし葉にはとげがあり手を切るから、軍手などをかけて引き抜く。採取場所は2カ所ある。いま林道通行止めなどになっていて入れないが、Y地区とH地区が俺の採取場だ。ヒロロよりシバクサのほうが丈夫で長持ちするから、奥山まで行って採取したとしてもシバクサのほうがいい」
■水車小屋で、ガマの葉を干す竹竿を結わえるロープで、小さな事件があった。ここの学芸員さんがハサミでロープを切ろうとしたとき、手伝っていた麦わら帽子をかぶった二人の地元の女性(ともに60歳代以上で農家と推定)が「切っちゃだめだ」と声を上げた。渡部康人さんは「長いんだから切っても大丈夫だから、切れ」と言っていた。私はその風景を現場で見ていて、このなりゆきに注目していた。職制上はたぶん学芸員や職員の指示をうけ黙って作業をするのが女性らの本来の役目だ。でもいま堂々と自分の意見を言っている。
石油を原料として作られたであろう黄色と黒のプラスティックを編み込んだ太い「虎ロープ」。通常、立ち入り禁止区域を明示し囲ったりする場合に使うものだ。これが脚立を使い、水車小屋の天井の梁から下げられ、そこに竹竿がかけられていて、ここで切断しなければ、もう一本の竹竿が下げられない。ながいまま使う、という手法もないわけではなかった。
女性二人は言う。「切ったら、もったいないべ。あーあ、、、切るべきではない、、、、切るな、、、」と。
でもロープは切られた。
■この小さな事件の後に、別棟でシバクサによる蓑作りの話を聞いたのだ。物を長持ちさせるために人は努力する、ということだ。そのために奥山に植物を採りにいく労力はいとわない。長持ちさせる、という哲学を少し大切に考えなければならない、とこの朝の数分に私は教わった。植物を乾燥させてひもを作る、そのひもや糸が人の暮らしを長く支える。ひもを編み組してカゴができる。ものの基本には糸やひもがある。
縄やロープはプラスティックで石油を原料として機械が作ったものかもしれない。値段がとても安く使い捨ての素材かもしれないが、ロープ(ひも、紐)の持つ機能は素材の価値ではなくとも尊重されるべきなのだろう。ロープというひもが持つ社会的価値、糸を切る行為に直感的に職制をこえて反対できる感覚を持つ人々がいまも多く暮らす地域でよかった、と私はそこで思った。
国道をこの日、左折しなければ、こうした資料館の朝の開館準備のなかの風景を見ることも、このように感じることもなかったであろう。2日間ほど考えてみて、以上のようなことに思い至ったので文章にまとめた。ウェブログ(ブログ)に書く、という行為は、ワープロで原稿を書く行為とは作業は同じでも異なる。それは白い紙に書き直しができない状況で書く行為がブログに書く行為であるからだ。書き直しはできるが、心構えとしては緊張し書き直しができないことを書いている。ネットで接続された状態で書く、という行為は公共の公開された場で実演しながら書いている、という感覚に近い。
→→→関連・雑誌会津学研究会
(菅家博昭。執筆時間:9月19日午前2時から3時43分まで)
■これとおなじことが8月5日の昭和花き研究会のかすみ草あぜ道講習会でもあった。50cmくらいに生育したかすみ草アルタイルを金山普及所の佐藤充技師がハサミで根元から切ったときのことだ。摘心(ピンチ)といって生育途中の植物を途中から切って、残ったふし(節)から脇芽を出させる技法の講習会のとき、60歳代を超える農家はみなためいきをついた。
「あーあ、、、、切った。せっかくここまで育ったのに、、、、」
暮らしを立てるためにかすみ草を栽培、管理、販売しているが、植物が小さな苗のときから、かすみ草自身で生育してきた道のりを思うと、直感的にこのような「残念だ、、、」と言葉が出てしまうのだ。そこに生活をたてるための「業(ごう)」が多くの(土壌バクテリアや植物などの)いのちの犠牲のうえに成り立っている感覚がまだある、ということを知ることができる。
→→→動画 あぜ道講習会
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