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KANKE/リンク

2006欧州視察

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    2006年11月 JELFA欧州視察の個人写真記録。菅家博昭撮影。

2006年12月冬の沖縄

  • 20061203img_3812
    2006年12月の沖縄県内。花の生産地や街の様子。菅家博昭撮影。

2007年1月から

  • 20070401img_9892
    2007年1月から奥会津などの風景、菅家博昭撮影。

2007静岡カスミサミット東京

  • 20070201img_9619
    2007年2月1日に東京都内・大田市場で開催。

2007年4月から

  • 20070426img_5713
    2007年4月から、奥会津の風景、かすみ草生産作業風景など、菅家博昭撮影。

2007年5月の風景

  • 20070520img_0193
    2007年5月の奥会津の風景、かすみ草生産。菅家博昭撮影。

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  • 20071011ifexdsc02602
    144枚、菅家博昭撮影。幕張メッセ花の展示会。

2007年11月

  • 20071108dsc04006
    2007年10月オランダ、アムステルダムのホルティフェア、アールスメールマーケットでの印刷物資料

2010年1月

  • 20100131dsc00811
    2010年1月25日~27日、熊本県

2010年02月 かすみ草栽培

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    2010年2月12日 かすみ草ファンタイムの砂あげ苗のポット仮植作業。撮影菅家博昭。

かすみ草写真集1

  • 20061010img_3904
    348枚。菅家博昭撮影。かすみ草生産地での撮影。

奥会津の風景01

  • 20060801img_4064
    387枚、菅家博昭撮影。おもに昭和村など。

2006北海道かすみ草サミット写真誌

  • 20060715img_0143
    2006年7月13日、14日。北海道夕張郡由仁町で開催された第4回全国カスミソウ北海道サミットinみなみそらち・ゆに

2006年夏の記憶

  • 20060913img_9418
    2006年の奥会津・昭和村、カスミソウ栽培の風景。菅家博昭撮影。

2006年秋の記憶

  • 20061114img_1169
    2006年秋の福島県奥会津の風景、カスミソウ栽培の様子など。菅家博昭撮影。

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2011年1月31日 (月曜日)

与那国島の「ブー(苧麻)」

■山口県の安渓遊地さんが与那国島で教えられた苧麻(からむし、現地ではブー)の事例が紹介されている。PDFファイルの3頁目。→ 安渓:生き物に語りかけてみる

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ブログの閉鎖

■2011年1月31日(月)雪

 今日は、午後1時より南会津郡只見町只見:只見地区センターにおいて奥会津大学の講座があり出講。「地域の調べ方」。陸路3時間以上かかる。雪は福島県内では最深。

 → 奥会津の地域の調べ方(予稿)

■1月28日にて政府の花の担当の方の個人ブログが閉鎖になった。ツイッターで閉鎖が話題になり、コメント欄に何名かが書き込んでいる → こちはな  →はなびと

■明治政府の骨格である長州藩域である山口県庁前では原子力発電所建設に反対するハンガーストライキが行われている。知事は会うつもりはないという。→1月27日毎日新聞 → 1月21日より

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↑昭和村大岐・坂ノ上圃場のパイプハウス骨組み。積雪3m。ほぼ雪に埋まっている。2011年1月30日午後撮影。

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菅家福次日記:1943年1月31日

1943年1月31日(日)晴れ
 雪が□□んど漸次晴天になって寒中には稀なる暖かき日となった。木伐りを大馬力をかけたが余り伐れずにて一窯半位。夕方運ぶ。夕方は日本晴れとなって居たが夜になると急変、雪となる。夜は新聞の首相の施政演説を読み、今日未だ富民を読み母等に聞かせる。吾等農民の使命重大の気を教吹される。発信葉書二(□兄、□兄)、受信富民。

★(解説)大馬力で仕事する、という表現がよく出て来る。夜、家で新聞を読む。1月4日に注文して、新たに郵送で到着した雑誌「富民」を母等家族に読み聞かせている。

2011年1月30日 (日曜日)

ナイロビ

知足の精神

■中村彰彦『名君の碑』(文春文庫、2001年)

 江戸の玉川上水開削を建議し、明暦の振り袖大火直後に江戸復興計画を立案実行した保科正之。700頁。今回のアフリカ旅行中に読んだ。只見町の盲人・長薫についても書かれている。読書の目的であった、なぜ会津藩主保科正之は神社を合祀したのかは不明のままである(1663-66)。

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氏家邦夫翁

■2011年1月30日(日)

 今日は昭和村。

■1月29日(土)晴れ

 福島県郡山市磐梯熱海温泉・清陵山倶楽部で午後3時30分から「福島県花き普及事業40年のつどい」が同実行委主催で開催された。縁あって90分ほど講演をすることになった。依頼のあった演題は「これからの花き産業の在り方と普及指導に期待すること」である。現職・退職者OB含め多くの参加者があった。

 1970年・昭和45年に花き担当普及員が設けられ40年。このとしは米の減反(生産調整)がはじまった大きな節目の年である。

 私(菅家)は1983年から花作りに携わり、1984年に奥会津・昭和村大岐での自主生産農家団体・昭和花き研究会の設立に立ち会った。27年前、その時の福島県の担当普及所は金山町川口にあり県職員の氏家邦夫さんが所長であった。たいへん久しくお会いしていなかったが、今回こうした会合に参加しいろいろお話をうかがうことができた。

 氏家さんにたずねると現在81歳である、という。当時に奥会津を中心として会越国境に自生する独自種オトメユリ(別名・ヒメサユリ)の自生地調査や産業化への技術立案を現地で行って栽培暦等を作成されており、当時のことをうかがうことができた。

 昭和村と南郷村(現・南会津町)の鳥井峠が原種原生域で当時濃密な分布確認がなされた、という。新潟県の協力も得たが、県庁の新田さんの尽力によるところが多いという。産業化にあたっては真土(心土)を利用すると野鼠害が少ない、3年で球根生産を一巡すること、一部を食用にまわすことで球根の鮮度を保つことが肝要である等、教示を得た。

 氏家翁は当時昭和村大岐の坂ノ上圃場で、果樹技術の予防の石灰ボルドー作成を実演され、当時私たちがグラジオラスとともに主力としていたスターチス・シュニアタの灰色カビ病への応用を指導された。わたしはその現場にいた記憶はいまでもとても鮮明に記憶している。氏家翁のオトメユリの栽培普及への熱意については、拙稿を『雑誌・会津学』4号(2008年、奥会津書房)の「私の月田農園物語」に紹介している。

 1984年、葉タバコ栽培から花作りに転換した私は、福島県会津農業センターが主催する短期研修花きコース(数ヶ月に1回、1日開催)に5年ほど参加した。講師は県職員の花普及員諸賢であった。この「学校」で教育されたことが、花との向き合い方、仕事の進め方、先進地元生産農家・産地の視察による農家の訪問、、、現場で働きながら課題を持ちより学ぶという手法で、自分の仕事感を作れた。ときに、大学の農学部を卒業してすぐに県職員となり現場に出て、担当する品目の講義をする若い諸兄とはとても議論がしやすかったことも、長く通った理由である。品種の来歴や研究の課題、など対処の仕方、物事の見方など基本を親切に教えてくれた。

 そうしたことを話し、今後の産地運営に必要なこと、不要なことを話し、残りを今回のアフリカ視察のスライドを紹介した。

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靴底のビブラムソールに付着したアフリカの大地・レッドランドのソイル。よく歯ブラシで洗浄してから帰国した。今回アフリカを旅した靴はシリオ sirio  pf230gtx。1981年イタリアで創業。2010年から履き始め馴らした。会津若松市内のアウトドア用品店あるぺんハウス(川島氏)に奨められ購入した。ウリヴァリン、レッドウィングなど、この30年間、靴はここで買っている。

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赤い大地の白いかすみ草・ミラベラ。フェアトレードの花束加工に使用するため圃場で開花させ使用している。この農場では3年前からかすみ草の生産を開始している。フェアトレードの花束にはフェアトレードラベル(認証)のかすみ草が必要なので、バラ農園が自らかすみ草を栽培する事例がコロンビアなどでもみられる。圃場で採花しすぐ前処理剤液の入ったバケットにて運ぶ。

 アフリカの農業が警告していることは2011年は「水」をたいせつにすること、「地域」の素材で生産をすること、「石油資源」をできるだけ使わないこと、、、である。そのために品種が存在する、ということである。品種に合わせた環境管理をする、のではなく、地域環境にあった品種を採用する・育成する、ということである。種のもつ力は偉大だが、それを使う人間の力がアフリカ以外の農業生産国には欠けていることをアフリカは示している。JFMA18人はそのことを多く学んで帰国した。2003年から花産業を導入した後発のエチオピアは、現在のマネジメントはインド人。資本はさらに異なる国々。しかし秀逸なマネジメントであった。圃場は清潔である。そしてインド人マネジャー(農場責任者)は「仕事は一人ではできないのです。農場の現地で働く人、それを届ける人、店頭で販売してくれる人、、、」と言い切る。

 折しも、衛星中継された中東ドーハからの映像で、ザッケローニのマネジメントの秀逸さを多くの日本人が見せつけられたであろう2011年1月30日未明に、菅家博昭記す。試合を決めたのが帰化した在日韓国人四世であった、ということもたいへん示唆に富む。

 

 

菅家福次日記:1月30日 ウサギの足跡

1943年1月30日(土)晴れ
 快晴だ。凍てるさはすごい。朝、窯に急ぐ。過呼吸さいさない位。午前中に炭を出し木を入れる。岩山の上に兔の跡がある。かく行って見たが居なかった。午後、荷造り。夕方になって木を少し割る。昨夜創が相当痛めたからって毎日山に通って居ると本当は何も考へる余地がない。兄清次は雪下ろし。

★(解説)岩山の雪の上に兔(うさぎ)の足跡を見つけたので鉄砲を持って行っている。山での炭焼きをしていると何も考える余地がない、と述懐している。

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2011年1月29日 (土曜日)

菅家福次日記:1943年1月29日 

■代筆

1943年1月29日(金)雪
 四人がかりで広兄の窯も木を伐り割り運び出す立てる荷造る等、終日かかってしまった。自分と喜八氏は足で起こして居たがあっといふまに手を挟み「つめがしら」をすりむへてしまった、痛い。夜になっても痛みが止まらぬ。荷造りには一番閉口した(早朝守平氏へ葉書代筆にて贈品記状)

★(解説)不在の広兄の炭焼き仕事を四人で手伝う。その際、手を木にはさんでケガしている。大岐である山塊で炭焼きをこのときしているのは、広兄、彦蔵、喜八氏、福次(清次)、あとは一郎だろうか?また葉書の代書をしている。

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2011年1月28日 (金曜日)

菅家福次日記:1943年1月28日 五本松

■五本松

1943年1月28日(木)雪
 朝八時半出発。七時半頃新八君と三島神社に参詣。五本松まで別る多勢の人に送られて行く。自分は村はずれで後は兄に託して炭窯へ。三俵は完全に出た。大体荷造りまで終了。広兄は川口へ組合長会議。僕等同業四人で明日、広兄の窯を炭を出すことになる。萬歳々々彼は元気よく出発す。夜、小中津川の善三氏と下中津川の千代松氏泊まる。

★(解説)福次は小野川本村の中島に泊まったのだろう。朝に鎮守の三島神社に参詣し、滝谷川を渡り、喰丸峠登り口の五本松まで村人が送る。五本松はそこに松があり特に冬季吹雪時の道標となっていた。大岐の広兄が川口に、炭の組合の仕事で行くのだろう。そのため残った四人で彼の分をやる、と言っている。二人が大岐に泊まる。新八の出征のために来たものだろうか?

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現在の五本松付近にはNTTドコモの携帯電話用の無線中継塔が建っている。

2011年1月27日 (木曜日)

帰国

アフリカから帰国しました。明日会津に帰ります。成田空港です。

菅家福次日記:1943年1月27日

1943年1月27日(水)吹雪
 今日は出る(炭)日であったのが、焼けて居ない。面白くない。木を一本伐って昼食後少々仕事をして家に帰る。今日は風少々強く、肌寒き日であった。明日は新八君が出発だ。夕方小野川に来た。餞別は村人が多数来れる。明日朝八時出発の予定だそうだ。全く寒い。凍てること流石寒中だ。兄清次は雪下ろし。

★(解説)小野川本村の中島の渡辺新八が出征するので、餞別を持ち村人が中島に来る。

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2011年1月26日 (水曜日)

菅家福次日記:1943年1月26日 晴天兔狩り日

1943年1月26日(火)晴れ
 昨夕の予想通り、晴天となる。過日伐った木を運ぶ。午後兄貴も行き一窯ばかり伐る。補助たき夕方まで閉口する。今日は兎狩りによき日なり。各所でドーンドーン彦兄と一郎君が行き二匹とって来た。帰りに背負って来た。木炭は向への乾場に積んだ。夜杉山沢の木間さんが来る。簀子代金払へ。酒に酔って十一時まで唱を歌っていく。兄は雪下ろし、午後に炭窯に。

★(解説)晴天となり兄の清次は午前中に雪下ろし、午後に山の炭窯に行く。弟・福次は一日中山の炭窯で仕事をしている。吹雪続きの後の晴天日で兔獲り最適日で福次も行きたいのだろう。猟銃の音を聞いている。大岐の彦蔵と一郎で兔を二匹獲ってきた。木炭は大岐の向かいのホシバ(乾場)に置く。ホシバとは夏にアサ等を干す場所で草付きの広場として維持している。杉山沢の人が来て歌を歌。琵琶首の下平木地屋の先、胡桃平の杉山沢の人が来て歌を歌っている。そこに作業場(飯場)があったようだ。

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胡桃平と杉山沢(琵琶首)

2011年1月25日 (火曜日)

ケニアのかすみ草ミラベラ

■2011年1月25日(火)ナイロビ

 今日は午前中2カ所、バラ生産農場を見て午後にクリザールのナイロビ事務所でケニアの花産業の説明を聞き、ナイロビの空港からアディスアベバ空港経由(トランジット)しタイのバンコクまで移動する。

■1月24日は、未明に小川孔輔先生と私が腹痛。午後は移動バスで4名が体調不良となった。

 同行している花の輸入商社の関係者はそれぞれ顧客農園に営業訪問のため別日程となっている。24日はバラ、カーネーション、かすみ草、アルストロメリアなど3農場を視察した。

 ケニアはイギリスの植民地であったので、自動車は日本と同じ右ハンドル、左側走行である。エチオピアには道路信号は無かったが、ケニアのナイロビ市内の中心域のみ少し信号がある。それ以外は交差点はロータリー方式。英国や欧州向けの野菜生産農場が多くナイバシャ湖付近にあり、プライベート飛行場を持ち、自社航空機で直接英国等に運搬している。

 ナイロビ市内は道路工事をしていることもあるが、たいへんな渋滞で2時間ほどもかかっている。

 

 

■1月24日は6時30分ころから降雨となり7時にバスで出発してからも午前中は雨。ナイロビ市内から北西部丘陵地に入るとコーヒー園が続き、その後、霧のかかる地域では紅茶生産圃場が続く。森林地帯を経てグレートリフトバレーの展望台で晴れ。2140m。自動車は下降し、火山帯、草原を抜けてナイバシャ湖に。片道100km。2時間。

 視察した農場では各種草花を含みブーケを制作し英国の量販店に納品している。使用しているかすみ草はミラベラ。ミヨシと提携しているアメリカのボール社のもので、エチオピアでも栽培され、一昨年に訪問したエクアドル、コロンビアでも栽培していた。特に、ブーケを製造している農園での生産が多くなっている。

 生産圃場は裾、妻部開放型のハウス。2条植え、点滴ドリップ灌水、電照設備は付いている。幅80cmで高さ50cmのベッドに定植されている。現在の開花採花したものは50~60cmの花束に入れられており、開花室は使用していないが、雨期には使用するという。

 ミラベラは花の開花直径が0.8ミリ。使用開花ステージは3段開花。純白。

 導入経過は、エチオピアの別な企業集団の花農園で聞いてきた「電照による花芽分化誘因」が不要なためだと推察された。つまり夜に使用する電気料をコストダウンできる。また昨年はイスラエル等のかすみ草農園では電照用に配線された電線が夜に盗まれる(鋼材を売る)ことが多くなっており、農園全体に塀を巡らし警備員を終日置いている農場を今回は視察しているので、電照不要で花芽分化できる性能が評価されていると思われた。またミラベラはエクアドルを視察した時に、マイナーリーフ(ハモグリバエの幼虫・絵描き虫)が入れない葉の剛直さを持っている。

 撮影デジタルスチル764枚、ビデオ54カット。

  

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菅家福次日記:1943年1月25日 道具トビの焼き締め

■トビ

1943年1月25日(月)吹雪
 相当の深雪だ。昨日よりは少々よいが、中々の吹雪だ。炭を午後に出す。午前は広兄のところへ木割手伝へに行く。兄貴が午後行く。今日は、昨日とは炭を背負って来ない。今日は何時よりも遅い帰宅は新八君が来て行く来る途中、窯に立ち寄って行く。夜は「とび」を焼く。今日の出炭は三俵。

★(解説)午後に長兄・清次が炭焼きを再開したので、弟・福次は広兄の炭窯に行き木割を手伝う。炭窯に小野川の中島の新八が来た。夜は木材を引き寄せるに使う「トビ(鳶口)」を焼き締め道具の手入れ。清次が製炭を再開したので、道具の手入れを思いついたのだろう。山の仕事にはトビとドットコの2種の道具がある。

2011年1月24日 (月曜日)

日本製

■22日に遅い昼食を食べたエチオピア市内のインド系レストランのナイフ、フォーク、スプーンは日本製。古いもので新潟の燕三条か?

 バラやヒペリカムの樹木系花きを扱う農園は日本製の園芸剪定はさみ(兵庫県三木市 サボテン社製)。千葉の幕張メッセで開催されるIFEX展示会の中央通路は三条金物(新潟)のハサミ類が出展している。

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↑サボテン社製(日本)。ゼンマイバネは使用頻度で折れると交換する。

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レッドフォックス

■花の農場の責任者(マネジャー)。オランダ系白人はジーンズで普通の服装。インド人マネジャーは白いシャツが多い。

 インド人マネジャー氏は「仕事は一人ではできない。人と多く関わって良い仕事ができる」と語っていた。

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エチオピアのセメント工場は中国社

■アディスアベバ北部40km付近の草原、未舗装道路の西側に中国企業のセメント工場があった。これから多く建設されるであろうセメント原料工場。砂とセメントと砂利を混ぜて工事で使用できる生コンクリートを製造するバッチャープラントは3日間で1カ所(北部)で見ただけで、現場でミキサーで製造している。

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エチオピアの電柱

今朝(1月24日)は3時起床。腹痛で目が覚めた。投薬。

■昨日早朝(2011年1月23日午前)、エチオピア市内は停電になった。30分くらいで復旧した。奥会津(日本国内)は2010年12月25日~27日、大雪で電柱20本、杉1000本等が折れ電線が切れたりして停電となった。

 

■エチオピア国内の電線は3日間、市街部を観察して見ると三相交流240ボルトと思われユーカリ樹木細木製が多い。中心市街の一部と新規建設住宅街はコンクリート製電柱がわずかにみられた。

 変圧トランスはとても少ない。廃棄したトランスはアディスアベバの北部の路肩に数百個騰貴してあった。阪神大震災でも問題になったのだが、トランスにPCBが絶縁剤として入っている。

 日本では戦後復興時、成長の早いカラマツ材が電柱に使用され、そのため昭和30年代には長野県産苗木を相当山塊に植林している。奥会津では、カノ(焼畑)跡地、半自然草地の茅場を分割登記してカラマツを植えた。成長したころにはコンクリート製電柱しか使用しなくなりカラマツ材は売れなくなった。

■インターネットでエチオピアの電力、で検索してみると水力発電所により造電。独立系地域ディーゼル発電機を利用し、13%程度(統計年次10年前)の普及率。

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↑変圧トランス。うなり声を上げている。支えるのはユーカリ材電柱。

↓ユーカリの表皮を剥いだ白い地肌はきれいなものだ。

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↑電柱には金属製アームに陶器製の碍子(がいし)絶縁体が付き電線を結ぶ。碍子は会津本郷(焼き物)などで大量に製造されかつては輸出されていた。私が卒業した会津工業高校には電気、電子の科のほかに窯業科(ようぎょうか)があり、窯業科は電線を支える碍子やトランス絶縁体(陶土製)を作る設計基準を研究している。のちにセラミック科になる。電子集積回路ICの半導体は希土類、いわゆるレアアースで作られる。「鉱石ラジオ」が原型。

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↑左側はコンクリート製電柱。支線で支えず、添え木で支える。中央右は木製電柱。右のワイヤーは電線。

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↑コンクリート製電柱(左)は幹線、ユーカリ製電柱(右)は支線。木製は電話線も。発電所からの送電鉄塔は移動した地域では見られない。

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↑すべてユーカリ製電柱が2並列。左は基本形で3本の電線を架線。右中央はそれを上下2段の送電とするため6本架線。この2列で3系統の電気を送電している。アディスアベバ北部50kmの草原。碍子は黒い。

↓アディスアベバ市街南部45km。会津本郷でも丘を崩して陶土を採取しているが、この左側丘陵の切り崩しは農業利用火山灰土。暗赤褐色の多孔質で粉砕してそのまま植栽用床土として利用されている。つまりこの培土の地域で外国資本による施設農業が行われている。この地域は2004年ころからバラ、かすみ草、サマーフラワーなどが栽培。右後方にはハウス群が見える。道路にもその暗赤褐色の砕石が敷設されている。ほこりが出て、路肩の植物も赤くなる。

 この地域とアディスアベバ市内の道路東側にはかなりの長距離にわたり園芸店(鉢物、緑化植物、培土類販売)の小売り・問屋街が見られた。バスから見て気づいたのは数人しかいない。

 熊本県天草地域では、砕石屑をかすみ草栽培に使用している。

 農業は地域の土や岩の科学にほかならない。

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↑暗赤褐色多孔質破砕岩石を基盤土壌の上に客土して耕土としている。南会津町田部の湯田浩仁君が水無川右岸の河川敷でトルコギキョウを栽培しているが、彼も基本土層の上部に深さ1mほどの客土をして圃場形成している。

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ケニア ナイロビ到着

■2月23日、20時、ケニアのナイロビの宿にチェックインした。これから夕食。明日24日は6時起床、7時出発でナイロビ北西部のナイバシャ湖周辺の農場を3カ所視察する。かすみ草農場も急遽みれることになった。

■エチオピアのアディスアベバから空路、ケニアのナイロビに。26度。風は涼しい。入国はアメリカ同等で厳しい。顔写真、両手の指紋も撮影される。23日は343枚撮影。

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菅家福次日記:1943年1月24日 蓄音機

■蓄音機
1943年1月24日(日)猛吹雪
 朝の積雪一尺余り。終日満天の風雪霏々。奈良布の原の風言語を絶する。広兄等小屋の中にて寒さを凌ぐのみ。それさへ躰一面真白。自分は前線を偲びこれもきっと一窯の木を割り小屋に入れる。昼食後すぐに帰宅。後、山刀の柄入れ。夜は彦兄の散髪。それから蓄音機レコード聴き入る。他界に入るの感ある。後は想いぽかんとする。兄・清次は農事休。

★(解説)朝の新雪は30cmあまり。一日中吹雪であった。特に奈良布原の強風はたいへんだと書いている。小屋とは炭焼き小屋のことで、境の沢流域での炭焼きと想定しているが奈良布原の風雪としているので炭焼き場所について今後、見直さなければならないかもしれない。前夜うまくいかなかったナタの持つ手に木製の柄を付けた。隣家の彦蔵の頭髪を切ってやる。蓄音機でレコードを聴いている。菅家福次20歳。

2011年1月23日 (日曜日)

携帯電話写真ナイロビ


携帯電話よりナイロビ市内

停電

インターネット接続中、停電で回線不通となり、あさは宿を出る。アディスアベバから空路ナイロビに一時間遅れ着。日産バンで三台に分乗し空港を離れる。ラジオは雷のノイズが聞こえる。26度、風あり、晴れ。携帯電話から。午後3時前

エチオピアのかすみ草

■2011年1月23日(日)アディスアベバ午前5時

 朝7時に宿を出てバスで空港へ。ケニア国向け出国する。

■1月22日(土)エチオピア滞在2日目。視察は3農場。実物のヒペリカム2,かすみ草+バラ1。朝7時発、30kmの地域。市街に戻り50km先、ここは砂利道で正午着。視察後、50kmを戻り市街経由で南部45kmで視察先着が17時。すでに農場労働者はバスで帰宅、誰もいない農園をその農園マネジャーらの案内で18時まで見る。そこから夕暮れの砂利道をバスでアディスアベバの宿に20時着。バスで市内のレストランにて夕食ということだが、私は朝2時から起きているので夕食は取らないこととしてすぐ寝た。23日は朝3時起きて、昨日(2日目)の撮影分の整理をする。

 1月22日撮影分、デジタルスチル1031枚、デジタルビデオ56カット(合計1時間)。バッテリーは3個消耗し交換。これらはPC経由でハードディスクに控えを取り、オリジナルメディアはスーツケースに梱包。23日からはケニアなのですべて新しい記憶メディアに録画する。

 スーツケースは空港で無くなるかもしれないので、機内持ち込み手荷物にも記録も分散する。そのためカメラも充電器も予備バッテリーもすべて2つに分ける。

 スーツケースは成田空港の計測が19.7kg。20kg以内。タイのバンコクの空港でのトランジットはチェックイン後、搭乗ロビーから機内に入る直前に台秤を置き、機内持ち込み手荷物の重量を再計測しているので、要注意だ。エチオピアの空港でも出国手続き後にターンテーブルからスーツケースを受け取り、退室する前にまた手荷物・所持品(バッグ類すべて)のエクス線検査があった。

■エチオピアのかすみ草農場は、2003年から花の農場が設立されてから900ヘクタール、約35農園のうち3農園ほどがかすみ草を生産している。視察先はイスラエル系の農園で、15ヘクタールのかすみ草を露地で生産していた。

 栽培品種はミリオンスター、ニューラブ、カシオペア(日本名はホワイトベール)とイスラエルのダンジガー社の品種。そしてミラベラ(エクアドル等)これは電照せずとも良く、大輪で導入しているということであった。

 試作はドイツのセレクタ社の銀河・セレブレイション、イスラエルのバイオロジカル社のタンゴなど。

 観察した農場でわかったことは、採花は頂花が1~数輪開花で、表現としては「3~5%開花」してから採花し、すぐSTS剤で2時間前処理しエチレンの発生による老化防止をする。その後、選別・調整し、開花室に入れる。開花室(オープニングルーム)は、見ると2段台車で、1台車に20バケツ搭載できる。これが1ライン10台あるので、200バケツ。合計1200バケツが開花室にあった。使用スペースは半分なので最盛期はこの倍数の出荷となると思われた。日曜は休日なので、毎日採花し作業しているので、このバケツ台車ラインは6レーンあった。1バケツには約100本程度入っているようなので、一日の採花本数は100本×200バケツで、2万本ほどである。

 開花室には寒い日、曇りの日等が1日多く滞在するが平均で5日間置く。温度は18度以上で遮光幕とハロゲン光源の調整をしている。湿度は70%。バケツ内には糖類やTOG、ホルモンなどで調合液が入っている。細部は語れない、という。その後、白い紙にグラム・長さ単位で包み、保冷し出荷を待つ。

 仕向先はドイツのランガード卸市場、ロシア(直売)、フランスの量販店である。

 圃場は露地(ハウスではなく外で栽培)。直近の山を切り崩して取れる暗赤褐色の火山岩を粉砕した培地での栽培が主体。バラもそれで栽培している。

 電照は4週間、60cm草丈まで行う。圃場には採花後の株整理したものもあった。年に3回転すると思われたが、株は1回採花したら破棄していると説明している。この農場では各種育苗(プロパゲーション、ライセンス生産)もしていて周辺農園に販売している。

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菅家福次日記:1943年1月23日 ナタの柄

1943年1月23日(土)吹雪
 積雪二寸あり。湿雪である。今日は炭出し。自分が焼き始めて十俵半となった。今日は風なり。帰宅の時などは実にひどい。今夜も大吹雪らしい。葡萄水等を呑んで寝につく。床に入ると一日の疲れが一気に出る感がする。夜、山刀の柄を入れるが割れてしまった。入れなほしせねばならぬ。兄が大谷から帰る。

★(解説)積雪が6cmほどあり、湿り雪。炭焼きを続けており、今日は炭出し。夜、刃物のナタ(山刀)を持つところの柄(え)を入れ替えるが、柄の木が割れたのでまた入れ替える。戦死した親戚宅の大谷に21日出かけた兄・清次が帰宅する。炭焼きは、寝床に入ると一気に疲れが出る、という。

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2011年1月22日 (土曜日)

穀物テフのインジェラ

■エチオピアの畑作物イネ科スズメガヤ属の実テフを発酵させ薄くのばして焼いたインジェラ。それで具材を包み食べる。

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フラワーウオッチによる品質管理

■初日に視察したエチオピアの農園のひとつがフラワーウオッチの品質管理サービスを受けていた。

■関連→カンケ ツイッター

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エチオピア2日目へ

■2011年1月22日

 エチオピア現地時間2011年1月22日、午前2時(JST0800)。写真の整理をした。視察初日の21日の写真撮影は808枚、ビデオ33カット。現地2日目は撮影モードを2Mから6MBに上げて撮影することにする。バッテリーが初日は装着分のみで持ったが空になり充電中。予備バッテリーは各カメラ2個。カメラは通常の2台、デジタルスチルカメラ4台、ビデオ1台と携帯電話のカメラとアンドロイドの計9台。

■2011年1月21日 エチオピア バラ生産農場1

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エクアドル系であるエチオピアでの視察農場1は、エクアドルと同じように地域にある樹木により施設を建てる。2009年に視察したエクアドルでは製材した角材をハウス部材に使用していたが、エチオピアではユーカリの丸太材。いわゆる細木で、5階建て建設の足場にもよく使用されており、道ばたにも販売先が多い。樹皮ははがして販売している。バラ温室では30cm立方体の基礎ブロックの上に細木を立てるが、外周部材は地上高150cmまではコールタールを塗布して腐蝕しないようにしている。トラスの組み方はエクアドル温室と同じ技法である。

  ハウス外にはラベンダー(ハーブ類)植栽で昆虫のハウス内飛び込みを忌避(予防)している。微小昆虫類予防にはニンニク抽出液を散布。後述するインド系の農園は、ダニ類予防には株もとのスプリンクラーによる加湿による耕種的防除法を使っている。昭和花き研究会のカスミソウのダニ予防と同じだ。

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足場は1階を作り足場をはずし2階を作る足場を2階に組む、という方法であがっていく。香港のビル建設火災の足場は竹製であったが、エチオピアはユーカリの細丸太(細木)。

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■視察した農場2、3、4はインド系資本による。温室はスペイン製鉄骨。2と3は標高2550m。2003年からエチオピア政府による外資投資が認められるようになり農業施設が建てられるようになっている。エチオピアの花は数年で900ha。アフリカではケニアを中心としてオランダ、イスラエル系資本により建設されたがインド、エクアドルも参入している。中国系は野菜やハーブ類。

 農場2、3視察後、草屋根の東屋で、炭火でわかしたコーヒーをごちそうになった。炭があるので注意してみると4農場の作業場(パック)には四方炭の壁(脱臭・吸湿)による倉庫が設置してあった。スーパーマーケットでも炭をおこす金属製のコンロが売っていた。

 温室でバラを切り水を張ったバケツにすぐつけ、搬出するが、それはバラ用の皮手袋を左肩に置き、その上にバケツを載せ肩でパッキングする作業場まで運んでいる。

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菅家福次日記:1943年1月22日 トランプ

1943年1月22日(金)晴れ、冷
 全く寒き朝であったが、漸次緩み□曇りとなる。今日は補助たきは少々で、好天気のため、木を二窯余分切る。同業者も大張り切り木切りだ。好天ユ矢の中にと。夜はニューギニヤ秘境探査記を読む。広一郎武等と清一達はトランプにて興じて居る。

★(解説)炭焼き。甥の清一(昭和七年生、当時十一歳)は友だちとトランプをしており、福次は本を読む。子どもの清一(セイイチ)が出てきた。我が父である。

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jfma エチオピア3農場

■2011年1月21日(金)エチオピア晴れ

 成田空港→(7時間)タイ・バンコク乗り換え(2時間)→(8時間)エチオピア アジスアベバ。10時間を超える航空便は、遣唐使船に乗ったような苦行である。帰国後3月8日の午後に東京都内で視察報告会をJFMAは予定している。

 

■アジスアベバの空港を出て、マイクロバスに乗る。スーツケースは屋根にディーゼルガソリンとともに積む。

 午前に2農場、午後に1農場、計3カ所のバラ農場を見た。マイクロバスの右前輪ブレーキが故障したため、代替バスを手配し帰着。

 標高は2000~3000mにある。空港到着時は15度、午後は25度くらいになっている。

 携帯電話はメールが通じないためメールからの記事更新はできない。

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エチオピアの首都・アディスアベバの空港。

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2011年1月21日 (金曜日)

バンコク到着、トランジット

成田空港から7時間でタイ。バンコクからこれから搭乗し9時間。

菅家福次日記:1943年1月21日

1943年1月21日(木)快晴、冷
 今日は寒中とは思われぬ程快晴だ。一点の雲さえない。炭二俵余り出る。正午前は出して又木を入れ終わる。それより荷造りをし、雪を下ろして木を切る。仕事は順調に終わる。兄は大谷に行ってお悔やみに行ったわけだが、母は夕方帰る。夕食には小野川より貰って来た餅を食べる。夜は萬実太幸君(否先生)が遊びに来て九時余まで居る。受信星野君よりの葉書。

★(解説)快晴。炭だしをして炭窯にまた木を入れる。小野川の中島・新八宅より母・トメが餅を貰って帰ってくる。腰をひねって休んでいた兄・清次は大谷(現・三島町)の戦死報を聞いて雪のなか歩いて見舞いに行っている。

当初これら炭焼きをしていた場所は境の沢流域ではないかと思っていたが、父・清一との議論のなかで、大岐から南南東に500mほどの、奈良布原の南西端、岩下の北東、現在の県道柳津昭和線の東手、黄金沢右岸合流端の現在のカラマツ林のある通称「まるやま(丸山)」だろう、ということになった。1月24日奈良布原の吹雪で炭焼き小屋に通うのがたいへんだ、1月13日、小野川からの帰りに岩下で友人等に追いつくが、家に帰るのは夕方、ということで岩下付近に炭焼き小屋があり、そこを手伝ってから帰った、ということがわかる。丸山は小野川の博士山側の猫沢左岸にもある。

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2011年1月20日 (木曜日)


成田空港第二ターミナル三階に着きました。予定通りチェックインして、出発します。

アフリカへ

■2011年1月20日(木)

 今日、雪の奥会津より成田・バンコク経由でJFMAのアフリカ視察へ。エチオピア6花農場、ケニア6花農場を視察します。19名。

 携帯電話より電子メールによりブログ記事(メモ)を投稿する予定です。

 →菅家ツイッター

■同行の小川先生松島さんがブログ更新するかもしれません。→JFMA  

小川先生 

松島さん

<1月20日~28日 JFMAアフリカ花視察>

成田発→バンコク乗り換えエチオピア航空ET609

21日エチオピア アディスアベバ 3農園視察
22日 同    3農園視察
23日ケニアに空路ET801移動ナイロビ泊
24日ケニア ナイバシャ湖付近3農場視察
25日ケニア 3農場視察 ET800でアディスアベバへ
26日アディスアベバからET606バンコク
27日バンコクから成田へ

なにわ花市場のアメリカ営業

■ → さぶりさん →さぶりさんツイッター

白川さんツイッター → ブルームジャパン

森聞き

■森の聞き書きが映画となり3月より公開される。→ 森聞き →森聞きブログ  → 共存の森

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価値の創造

■澤浦彰治『小さく始めて農業で利益を出し続ける7つのルール』(ダイヤモンド社、2010年3月刊)。

 著者は群馬県のコンニャク農家、養豚に就農から現在までの道のりをまとめている。すでに4刷で売れている本。内容も現在でているこの手の本では秀逸な内容。

■現場第一主義(作業第一主義とは違う)にみがきをかけそれを伸ばす方法を伝授している。特に、農作物の6つの価値はよい。

   価格競争から価値競争へ

 1.機能価値

 2.届け方の価値

 3.栽培方法の価値

 4.生産者の価値

 5.加工する価値

 6.組織の価値

■販売に力を入れると顧客は離れていく、、、、販売先から求められる衛生管理レベル(規模に合った衛生管理)。

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菅家福次日記:1943年1月20日 オソバのソネ

■バンドリ撃ち
1943年1月20日(水)晴れ、冷、風
 晴れては居るが風の強き日だ。今日は大馬力をかけて炭木を切らうと思ひど、彦兄の炭窯の天井が落ちたと云ふので、手伝いに行く。十三時頃終わる。昼時は空腹に酒をやったら酔った酔った。それから木を一本切り、木を割る。補助たきは、一辺で大助かり。夜は「おそばの峯」うら枝沢へ一郎君と共に晩鳥うちに行く。一匹居た。命中しなかった。逃げられてしまった。青空のみとなったので一発は雪だんごを射ってしまった。母が小野川の中島へ新八君の立ふるまへに招かれて行く。

★(解説)彦蔵兄の炭窯のハチ(鉢、天井)が落ちたので、修復の手伝い。補助たきは一回だったので助かった。母・トメは大芦から大岐に嫁いだ人でからむしをやっている。

 夜は昨日と違う山塊にバンドリ(ムササビ)撃ち二日目。大岐集落北方のバラヤマ(場良山)のオソバノソネ(おそばの峯)、その西隣のエダサワ(枝沢)は、清一によれば「カアタニ(川谷)からオソバノソネは、官民境の杉の植わっているソネ(尾根)一帯、でかい樹がいっぱいあってバンドリがたくさん生息していた。バンドリの巣、であった」という。寛次の父・広□は家から近いのでちょいちょい行って28番の村田銃でバンドリを獲っていた。戦前当時の大岐の鉄砲には3種類あって村田銃の16番、24番、28番。おらい(清一)の福兄(叔父の福次)は父・菊造が持っていた村田銃の24番を使っていた。16番は後に喰丸の治三郎に譲った、という。オソバのソネという地名は今回はじめて出てきて父・清一に聞き取り調べた。イタチなどの天敵から逃れるため尾根の樹上に丸まっているムササビは、雪玉やホヤカブ(ヤドリギ)がムササビに見える。

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↑中央山塊がオソバノソネ。その左側がエダサワ。大岐。2011年1月11日撮影。

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バラヤマ(場良山)東面より。左尾根がオソバのソネ。2011年1月2日菅家博昭パノラマTX9撮影。

2011年1月19日 (水曜日)

ふきのとう

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TPPと農協

■2011年1月12日から讀賣新聞が1面~3面で連載をしてきた「農業開国:岐路の農協」は5回連載で終えた。

1月12日(1)岐路の農協 農協改革避けられず・TPPと農業両立可能だ データ:組合員957万人「農家」の3.6倍

13日(2)農家本位の販売・購買を 農協流通強い支配力 データ:7兆円越す巨大商社機能

14日(3)金融頼みの経営脱却を 巨額資金証券投資に データ:貯金・共済120兆円動かす

16日(4)農協間の競争を促せ 農家失望脱会の動き データ:農地の違法転用年8000件

18日(5)農協は自己改革の決断を 政治と相互依存限界 データ:税制優遇、法人税は22%

■日経1月19日1面(8段記事)「TPP日本の覚悟(上)」米の積極姿勢 一段と 潮流逃せば大きな損失

■日本農業新聞1月18日2面(論説)TPPと生協連、賛否先送りの真意何か

 日本生協連は全国政策討論集会を13日、14日の両日、東京で開いた。注目の環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加問題の賛否について執行部は、データ不足を理由に決断を先送りした。会員生協や事業連合の一部から「日本農業を崩壊させる」と反対表明するよう求める意見も出た。TPPは例外なき関税撤廃が原則。細かなルールが決まっていなくとも、農業の将来は予見できる。判断先送りの真意は何か、あらためて問いたい。

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おからく okaraku

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川を埋める雪

■2011年1月19日(水)雪

 大阪のスミカの永島氏が朝より来家、あいさつ。農家を1軒ずつまわりかすみ草の苗の営業している。

■大岐村落内を流れる滝谷川は雪で埋まる。今朝8時頃、カワガラス1羽、カモ類2羽、カラス4羽。

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菅家福次日記:1943年1月19日 ムササビ

■新田の尾根でバンドリ撃ち
1943年1月19日(火)晴れ、冷、風
 風の強い日である。一時頃炭を出す。夕方荷造ると約三俵あり、自分が焼。初めてから五俵となった。道がなくなって居るので一俵背負っては仲々ひどい。夜、一郎君と新田の峯より上ワナ沢の峯を一廻りして晩鳥射ち行く。新田の峯で一匹射ち、鹿射に来て姿一匹見る。発砲数一発。受信横須賀通信学校の栄松君より。

★(解説)初めて一人で行った炭を出す。炭を背負い雪道を運ぶ。夜にバンドリ(ムササビ)を撃ちに山中に入る。岩山の北嶺続きのシンデン(新田)のソネ(峯・尾根)、カミワンナザア(上ワナ沢)、シカブチ(鹿射)。一匹捕獲している。毛皮が軍隊の防寒用として高く売れた。シカブチとはクイナ(喰名山)の南尾根鞍部とワンナ沢の源流部にある尾根を掘り込んだ掘り割りで、古くはこの落とし穴でシカを獲ったという。捕獲成功すると烽火(のろし)を上げた、という話が伝わっている。中世城館跡とも思われる構造物である。

このときの炭焼きは赤く焼けた木材を窯から引きだし湿った灰を掛けて急速に冷やすことで堅く締める堅炭の「あかめ(赤目)」と呼ぶ白炭である。通常は「くろげし(黒消)」といい黒炭で製造法が異なる。補助焚きとは、クド(煙突)にフタをして焼くことを言う。窯内の木を暖める。

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↑大岐集落と後背山塊。左より岩山・ワンナ沢、シカブチ、右手のピークはクイナ(山)。2011年1月2日菅家博昭撮影。

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2011年1月18日 (火曜日)

大雪の始末

■2011年1月18日(火)

 1月15日から17日、会津地方はクリスマス大雪の再来で結構積もった。20日よりアフリカ渡航のため、当初参加予定の17日のJFMAセミナー、19日JELFA理事会とも欠席し、雪の始末をしている。

 1月5日に仙台市内で黄熱病予防接種を受け1週間ほど体調不良となった。20日の渡航10日前には受けなければならないが、月に各ブロック(東北、関東、、、、)一度ほどしか行われていないため数ヶ月前から計画的に準備しなければならない。20日からJFMA(日本フローラル・マーケティング協会)19名(生産者3名、小売店6名、輸入加工5名ほか)が渡航するが、何名か同じような症状。今回は、いずれビザも必要で取得した。

 → バラ・かすみ草の産地(ケニア・エチオピア)

 これまでかすみ草産地はイスラエル、エクアドル、コロンビア、台湾、韓国を見たが、日本や欧州に輸出しているアフリカははじめて。

■帰国後1月29日(土)午後3時30分~、は郡山市磐梯熱海の清陵山クラブで、花き普及事業40周年の集いに参加。「これからの花き産業のありかたと普及指導に期待すること」

■1月31日(月)午後は只見町只見・只見センターの奥会津大学:「地域の調べ方」で講義する。主催者は電源流域・事務局は苧麻倶楽部。申込し、聴講可能です。

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↑大田市場花き部 仲卸

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■ → 2010年12月1日菅家博昭撮影 台北市。

菅家福次日記:1943年1月18日 ゆきつかえ

■ゆきつかえ

1943年1月18日(月)雪、冷
 昨日と同じやうな天気であるが、少々風強く、夕方は吹雪となる。炭木を伐る。窯の日をたく(補助たき)。一寸の暇も見たれず。世を離れた感があり苦しみもなやみも思い出せない。白き木を掴む手さへつめたさを感ぜないが手のあれるのは眼に見える。木割をしたせいか右腕が痛く肩がこる(新聞三日分来る)。富民日記注文す。一円拾六銭(送共)手紙。

★(解説)必死になって炭焼きを一人で行う。何も考えない無心の状態。雪で来なかった郵便扱いの新聞が三日分来たという。私たちの子どもの時代(昭和四〇年代)にも「雪支(ゆきつかえ)」という赤い印の押された郵便物が来ていた。雪で喰丸峠が通行できなくなると郵便配達は来ない。白き木というからブナを炭に焼いているのだろうか?

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2011年1月13日撮影。

2011年1月17日 (月曜日)

わくぐり

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都下

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TPP

■会津は大雪です。

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菅家福次日記:1943年1月17日 炭焼き

1943年1月17日(日)雪、冷
 兄貴の炭窯に僕がかはって行く。午後、二俵余り出して荷作りする。余り雪が降らず作業には最適日也。兄は未だ仕事出来ずに休み居る。今日は、狩りにも良き日なれど行くる能はず。致し方なしや。増産報□激務なれば寒気身にしみず金物に手つきぬ。製炭を一人で行ふは始めて也。

★(解説)兄・清次に替わって炭焼きをはじめる。一人で行うのははじめてのことである。大岐の菅家福次20歳。あかめ(白炭)を焼いている。

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2011年1月16日 (日曜日)

菅家福次日記:1943年1月16日 日記着く

■日記着く

1943年1月16日(土)雪、冷
 農作業休み。青年団総集会。本日日記帳着、記載開始する。青年団部長に当選、責務重大さを痛感。日中の委細の事は当用(普通)日記を買い求め書く事とする。帰途、小野川恒義氏の宅より縄六貫匁買ひ背負って来る。受信・当日記。貯金通帳局より来る。

★(解説)この日記(心の日記)が到着して書き始めるということを書いている。正月一日より十六日分まで書いたのだろう。そしてもう一冊当用日記を買い書こう、という。青年団の役員に当選している。

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小野川本村。中央の松は喰丸峠から五本松、そして小野川本村の名主宅裏の松と吹雪時に歩く際の目印になっていた。

2011年1月15日 (土曜日)

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ

■サイノカミ

1943年1月15日(金)雪、冷
 歳の神だ。兄貴が昨日、腰をねぢったと云うて休んでいるので、朝食後すぐ窯に行き今日は出るのを止める。歳の神の木を喜八氏の林の中より伐り、担ぎ運ぶが重い。藤切りには鉄砲部隊(善次、彦蔵、小生、一郎)子産沢に行く。そこで大川向へに越いで兎を狩りをしたが逃げられる。朝の良い模様が漸次雪となり夜には大降りとなった。「ヘーソク」僕が切る。

1月5日より炭焼きに雪山に出ていた兄・清次が14日に腰をひねり寝込む。そのため15日朝に福次が炭窯の様子を見に行く。この炭窯は現在の黄金沢の右岸の奈良布丸山付近にあったと思われる。福次の用事はすべて中止する。15日は大岐村落のサイノカミ(歳の神)で、芯木を喜八氏の林とあるから大岐の西裏手のオミヤ(大山祇神社)脇の広葉樹を切ってきたようだ。オガラ(麻殻)を各戸持ちより、イナワラの縄と、フジの蔓(つる)で巻き付け雪上に建てる。そのフジ切りに行くといって4人は現在の境の沢集落(当時は無い。戦後開拓で開村)の北方のコナシサワ(子産沢)から滝谷川を渡りオオカワムケエ(大川向)で兎狩りをしているが捕獲できなかった。この地区は大岐のカヤバ(茅場)である。サイノカミに上げる和紙を切り幣束を作った。この付近にはバッケマツ(松)が有り、目印となっていた。サイノカミはいまも行われているが、麻殻は無くなり、ワラやカヤ(ススキ)になっている。ホイト(乞食)が子を産んだ場所がコナシ沢である。同じ地区にホイトシンダヒラ(乞食死んだ平)というところもある。

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バッケマツの子孫(柳津町琵琶首・境の沢)

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大岐センター内掲示額より(2000年1月15日) 11年度は3月末まで。

2011年1月14日 (金曜日)

菅家福次日記:1943年1月14日(木)だんごさし

■だんごさし

1943年1月14日(木)小雪、風、冷
 団子さしだが、今日は小野川校にて青年団役員会(十時より)。帰還兵歓迎会(十三時)がある。団子さしを早く片付け用意する。自分一人で出かけると風となって道がない。先を案じてもどる。後藁地□下山カゴ等磨く。夜、高小時代の算術帳を見る。幾何何分六ヶ所今でもわからぬ位だ。今日の発信昭三へ(衣料切符在中の手紙)、フデ子へ(モチ送る)、貯金通帳局へ。

★(解説)小正月の団子さしの日。いまもだんごさしは行われている。いろいろ用事があり小野川本村に行こうとして出かけたが、雪道が吹雪で無くなっていて行くことを止める。弟妹に手紙などを送る。昭三は茨城県日立の軍需工場で働いている。

 → 大芦家のだんごさし

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↑2011年1月13日撮影。大岐。だんご。↓ミズノキ(だんごをさす木)

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2011年1月13日 (木曜日)

新春の大芦家

■新年になってはじめて大芦家に孝雄氏をたずねた。

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↑佐倉の喰丸郵便局とからむし織りの里。中央遠方に見えるのが下中津川阿久戸(開戸)にある高舘山(たかだてやま)。この中腹にアタゴサマ(烽火台兼)がある。雪や霧のなかでも見える山、というのが必須条件。

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↑佐倉の「舘裏山(たてうらやま)」と右手奥は喰丸を経て両原の舘腰山(たてのこしやま)。舘裏山は佐倉のからむし織りの里から見ると「へ」に見えるので通称への字山とも呼ぶ。

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↑中央山は下中津川阿久戸から見た気多渕・上平にある「猿舘山(さるだてやま)」中央岩壁に地蔵岩がある。高舘山は右手。1525年野尻山ノ内氏は猿舘山にこもり、田島長沼氏の侵略に耐えている。長沼氏は撤退時に村を焼いている。

農業開国

■2011年1月13日(木)

 昨日午前、大岐の集落内施設雪下ろしがあった。神社・ポンプ小屋・堤防付属水門2基。

  昭和村公民館に舟木幸一氏をたずね矢ノ原の昆虫調査について情報を聞いた。山形県小国町の草刈広一さんに依頼され、夜、彼に電話で伝えた。『ふくしまの虫 28号(2010年)』に「福島県におけるマダラナニワトンボの新産地と生態の新知見」として横井直人・三田村敏正が報告している。2009年9月26日に調査している。

 宮下の奥会津書房を訪ねると、東京の写真家の竹島善一氏がおられた。雑誌『会津学』表紙は竹島氏の写真である。

■1月11日午後、(有)昭和花き研究会の取締役会を大岐センターで全役員出席で開いた。1月12日、監査を受けた。

■2011年1月12日(水)讀賣新聞1面トップ7段記事、2面はTPPに関する農業記事(6段記事)で連載がはじまる。農協職員は22万人で郵政グループと同じ、組合員は957万人で農家数の3.6倍。昨年7月、北海道JA新はこだて花卉生産出荷組合は組合員に農協への出荷を強制したとして公正取引委員会から警告を受けた。一昨年12月には大分県大山町農協が、ライバル関係にある販売店への出荷をやめるよう農家に求め、排除措置命令を受けた。キャノン研の山下研究主幹は「価格下落で手数料収入が減る農協が、日本の農業が壊滅する、と農家の不安をあおっている」とJA(農協)の反対運動を批判。

農業開国 岐路の農協1

農協改革 避けられず

TPPと農業 両立可能だ

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菅家福次日記:1943年1月13日(水)岩下から大岐へ

■岩下を通り帰宅へ

1943年1月13日(水)吹雪
 昨夜からの風は未だやまず益々猛威を振ふ。授業今日かぎり家へ帰ろうと思えば話も耳に入らず。昨夜の披露式に招かれて未だ広兄と共に帰る僕等が清次氏に休み居る中、一郎君達学校に来て帰る。荒れていると思いど、意外、心安く帰る。岩下にて追へかける。好等登校に四時間もかかったと云ふ。夕方独りで家に帰る。夜貯金集金、昭三、フデ子の許に封書認める。

(解説)大岐から一郎たちは4kmの雪道を4時間かけて青年学校に来ている。連泊した福次は1月8日から12日まで小野川本村の親戚2軒に計5泊して、この日大岐に帰る。途中、岩下で先行きの一郎等に追いつく。

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↑岩山の下が岩下。もと木地屋集落があった。

2011年1月12日 (水曜日)

菅家福次日記:1943年1月12日猛吹雪

■猛吹雪

1943年1月12日(火)猛吹雪
 帰宅しようと思いど、猛吹雪なので泊まる。一郎君等は来校したが早めに帰る。学校への道などは何時もない。小野川の風はすごい。あまりの吹雪に急いで出て、書物包みを学校にわすれてしまふ。夜は栄八兄の結婚披露式が行はれた。見に出かけたが、余りの吹雪で早く帰る。吹き倒れに逢いそうだ。中島泊。

(解説)吹雪である。小野川本村の地吹雪はものすごい。そこで結婚披露宴が行われている。

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2011年1月11日 (火曜日)

会津若松市の十日市終わる

■2011年1月11日(火)

 午前、宮下の奥会津書房。午後1時30分より、大岐センターにて(有)昭和花き研究会の取締役会。

■菅家福次日記の解読をして→ワンナ沢再考

■はじめてB級グルメを取り込む十日市。→1月10日の十日市

 → インド農民の問題

■→ 小石とアルタイル

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↑中心山塊尾根が中世山ノ内氏の野尻・牛首城、野尻川。拡大してみると↓

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菅家福次日記:1943年1月11日 松坂

■雨、隣村松坂

1943年1月11日(月)雨、雪
 寒さ緩んで雨となり、昼過ぎより雪となる。昼食頂いて登校。三芳兄が松坂に葬式に行くといふのでその用意で一家大騒ぎ。今日は泊まるのも迷惑を感じ、帰ろうと思えど夕方の吹雪で又泊まる。「泊まれ」といはれると、帰りたくないから、言葉に甘えて泊まるのだ。夕飯は叔母の家にて御馳走になる。外は只々大風だ。中島泊。

(解説)小野川本村に福次は泊まって青年学校に通っている。中島から宿を三芳兄宅に替えて1泊したが、博士峠を越えたところにある松坂(新・宮川ダムで水没した下谷ヶ地等)で葬式に行くことになり、夜は中島にて泊。

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2011年1月10日 (月曜日)

菅家福次日記:1943年1月10日 晴れる

1943年1月10日(日)晴れ、叔父宅泊。
 今日は終日好天気。朝の寒さは格別肌にさす。今夜は中島より叔母の家に来て厄介になって居る。家に帰るのが嫌でたまらぬ。人より見たらずるい奴だと云ふ人もあるだろうが泊まって見ると嫌になる。今日の学科は歴史(大宝律令当時の宗教問題)成程とうなづかれる点、他にあり登校する。かくあると覚える。

(解説)小野川3泊目、中島2泊後、叔母の家に移る。大岐の家に帰りたくないと書いている。

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↑2010年12月27日、大雪停電中の小野川本村

2011年1月 9日 (日曜日)

雪、明日は十日市

■2011年1月9日(日)雪。

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菅家福次日記:1943年1月9日 雪の掃除

■教室の掃除
1943年1月9日(土)風、小雪
 寒き日であった。学校に一番早く行く。昨夜の風で相当吹き込んで居る。教室を掃除する。学科は教科書にもとづいてやっていくが、自分には本が渡らない。先生に金はやってあるのだが。乾布摩擦をすると□□さん達驚いている。夜は、叔父の家へ行って遊んで来る。学科を内訳で云ふと歴史購読、理科(衛生)。中島泊。

(解説)福次20歳は自宅のある大岐から4kmほど上流にある小野川本村の親戚の中島と呼ばれる新八宅に宿泊して青年学校2日目。小野川の叔父の家に行ったと言っている。カミ(上)の三芳miyoshi宅と思われる。我々の時代にはミヨジイ(三芳爺様)と呼んでいた。

  週末に行われているようだ。福次が通った校舎ではないが木造校舎の私たちの時代も同じだったが、夜のうちに戸の隙間から雪が室内に舞い込んでいる。そうならないように新聞紙を細長く切って戸の隙間にノリで「目張り」するのだが、それでも雪は入り込む。朝、ホウキでそれを履いてチリトリに入れて外に出す。戦後、昭和40年代でも私たちの冬期間は大岐・奈良布・見沢に季節分校が出来て、そこの冬の仕事は吹き込んだ雪の掃除(始末)と薪ストーブで教室内を暖めること、後半は石炭ストーブになったが、強風(吹雪)だと煙突に強風が入って、ストーブからの吹き返しで教室内は煙だらけになった。

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2011年1月 8日 (土曜日)

お花の社会的役割

■2011年1月8日(土)

 → たどりつく場所はどこか?

 → お花の品質管理

■1月10日は会津若松市・十日市→ 今年の催事

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↑昭和村松山・ツナギ(綱木) 1月7日午後撮影

雪。

■2011年1月7日(金)雪。

 1月31日の資料(A3:53枚)を下中津川の苧麻倶楽部に届ける。佐倉の喰丸郵便局、金山町川口の東邦銀行川口支店より預金残高証明を取る。会津若松にて決算監査。

■1月6日(木)福島県立博物館、遠野物語講座。終了後、赤坂さん、佐々木長生さんと、会津学研究会の会合があった。2011年の活動のことを相談した。

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菅家福次日記:1943年1月8日 ゆきおろし

■ゆきおろし

1943年1月8日(金)晴れ
 早く学校へと思い雪下ろし大馬力。午前中にて全部完了。新八君牧沢より帰る。一緒に中島に来る。夕方雪となる。夜、鼻汁でる。アンカで寝たら寝にくい寒い。体躯が雪下ろしで疲れて痛む(中島記)。学校着三時、最終の時間一時間だけ出る。

(解説)青年学校に出るため自分の課題、家の茅葺き屋根の雪下ろしをして二日目、それで体中の筋肉が痛い。一月五日に牧沢に行っていた新八が帰ってきたので、彼と一緒に小野川に行く。中島とは新八の家で親戚。当時歩いて行くときは、途中の集落に親戚があればそこに顔を出し一服して次の集落に向かう。新八は滝谷川下流の柳津町西山地区の牧沢集落に行くときに大岐の家に立ち寄り行き来したことがわかる。小野川の分教場で授業を受けた後、新八宅で泊まっている。

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↑2010年12月27日、大岐。土蔵の屋根の雪下ろし、コウシキへら。

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↑柳津町牧沢 2011年1月13日撮影

2011年1月 7日 (金曜日)

菅家福次日記:1943年1月7日、蕎麦

■蕎麦
1943年1月7日(木)晴れ、小雪。
 竹雄兄出発下通り堺沢まで見送る。小野川より大勢来る。村通過十時頃、待ち疲れる位。屋根雪下ろし開始。担当多載故困難。青年学校開始の報、今日聞く。好さん忘れる。夕食は叔母がうった蕎麦で舌つつみ。過日のおしどりの下地。五良君帰、工場。本炭積換へ。

(解説)戦後に開拓された境ノ沢集落も奈良布集落もまだ出来ていない。竹雄兄が出征するので小野川から大勢見送りに大岐まで来て、境の沢まで見送った。屋根の雪下ろしをする。夕食はカモ(オシドリ)を汁とした(下地)のソバ(蕎麦)。その蕎麦は叔母が打ったもの。炭の積み替えをしている。昭和村では、冬山の狩猟で捕獲したヤマドリ下地(したぢ)のソバが最高と言われている。暖かいソバ(かけそば)。

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↑写真は2011年1月5日の夜、会津若松市内の「舌づつみ」で食べた蕎麦。

2011年1月 6日 (木曜日)

宮城県仙台の花卸市場

■2011年1月6日(木)今日の会津は雪。2011年1月6日の日経MJ(流通新聞)2面は、石鍋編集員の「個」より「縁」の時代、「円」より「縁」の時代として、シェア(共有、わかちあい)を書いている。鈴木謙介関西学院大准教授の3つのケンを紹介している。体験、貢献、圏内(友人や家族のいる生活圏)。

  午後、会津若松市内の福島県立博物館で赤坂憲雄館長による「遠野物語講座」がある。

■1月5日(水)午前、宮城県仙台市、初市の仙台公設市場花き部を訪問。取引先の荷受会社:仙花と場内6社の仲卸等に年初あいさつ。12月25日・26日の会津の大雪・停電についていろいろと聞かれました。12月から正月の小売りの状況や主品目の各産地の状況について聞きました。

 仙花では谷井社長(昨年就任)、名木橋会長、担当社員と懇談しました。

■入荷しているかすみ草は仙花が和歌山産・熊本天草産。仙台生花が熊本産。いずれも、冬のカスミソウ品種は早生種のアルタイルという品種が多い。ミヨシ育種。出荷様式はプラスティック水桶を内装した段ボール立て箱。

■福島市中央卸の福島花き卸の橋本栄市社長からは電話があり、年初のあいさつをいたしました。

 福島県の奥会津でかすみ草の生産を夏秋に行っている私たち昭和花き研究会(生産者27名)は東北の地元では、福島市(福島花き)、仙台市(仙花・同仲卸)に出荷しています。年初は地元から営業を開始しています。今後、関東・新潟・中国地方・九州地方と冬期間に営業を行います。

■午後、アフリカ渡航のための黄熱病の予防接種を仙台市内の海外旅行外来で行いました(塩竃の検疫所が仙台市内医療機関に出向。12月に予約申込。渡航10日前に済ませる)。弱毒ウィルスの接種ですが、高熱が出る場合があり、1週間安静にします。会津・猪苗代出身の野口英世を思い出しました。野口はエクアドル、アフリカに。

 現在、地球上のかすみ草主産地はエクアドルのある南米北部地域と、アフリカのケニアで、いずれも熱帯高地です。2008年9月にエクアドルのかすみ草産地調査をしましたが、アフリカはまだ行ったことがなく今回2011年1月20日から渡航調査します(JFMA主催)。全国から19名参加します。バラとかすみ草が生産されています。フィンレイ、オセリアン等の農場を見ます。→ JFMA

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菅家福次日記:1943年1月6日 スミガマのハチアゲ

■炭窯のハチ上げ
1943年1月6日(水)晴れ。
 昨日、炭窯のハチ(天井)が落ちたと云ふので、行き、上げる。同業者三人が手伝ってくれ午前中で終了。御神酒で上げる。□□で皆で兎狩二匹とる。夜、家にて夕食の□高食ふ。発砲一発。夕方、小中津川泊まり来る。晩、饗応に一郎君を招く。今日は終日晴天。
 青年学校、学科授業開始。

■(解説)雪山で長兄清次が炭焼きをしているが正月休み開けて一月五日に行ってみたら炭窯の天井「ハチ」が落ちて穴が開いていた。そのため福次も「ハチ上げ」に炭窯に行く。近くで炭焼きしている村人三人が手伝ってくれたので午前中で終わった。ハチ上げが終わったので炭窯に御神酒を上げる。その後、午後に炭窯のハチ上げをした皆で兎狩りをして二匹獲る。福次は鉄砲を撃ったのは一発だけなので、同行者があとは撃ったのだろう。柳沢峠を越えて小中津川の親戚が来たので、大岐村落の一郎を呼んで会食している。

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昭和村両原の炭窯 2010年9月撮影

2011年1月 5日 (水曜日)

正月三日

■福島民報は西会津の米作り。低農薬。

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3度の発見

■2011年1月5日(水)

 仙台市。

■正月数日は教育テレビを見た。シリーズ物の特集で、たとえば音楽教室。永遠と続く調和した音に不協和音を入れる、、、、という発見、それが時代により調和が取れた音として感じるようになる時代、、、、1度と5度(ドとソ)でずっと続いた中世の音楽に、近世直前に3度の音を入れたバッハについて語っていた。3度の音「ミの発見」である。

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菅家福次日記:1943年1月5日 ワラグツ作り

■藁靴作り
1943年1月5日(火)吹雪
 朝食後、□□兄、次□兄、伊勢松兄、栄松君へ年賀状旁々縷々書いて昨夜の手紙と共に新八君に依頼する。彼は牧沢に行くと云ふ。十一頃より藁靴作り。一郎君規定兄を送って行く今日帰宅。猛吹雪で雪下で見合わせ。幸喜君出発、喰丸の帰還兵あり。往来頻繁道良好(冷水)。今日の発信、箋五枚、手紙、家から大谷への弔意状。
 作業表では藁靴三足、長兄(清次)が一月五日より製炭を十四日まで休まず行っている。

■(解説)小野川本村の中島の渡辺新八が西山村(柳津町)牧沢に行くというので、戦死した大谷村(三島町)大谷の親戚宛の手紙を託す。喰丸に戦地から帰ってきた人(帰還兵)。往来が多いので雪道は踏み固められて良好である、と書いている。同じ大岐の一郎は、大雪で出征兵士を送れず、家の雪下ろしをした、という。

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只見町 2007年4月撮影

2011年1月 4日 (火曜日)

菅家福次日記:1943年1月4日 厩肥出し

■厩肥出し
1943年1月4日(月)午前晴れ、午後雪。
 快晴。屋外に出て乾布摩擦。寒気夜の如く肌にさす。午前、厩舎肥出準備。幸喜君訪れ、酒を馳走してやる。午後、兄貴と婦人とで肥出し(二時間)。天気急変雪となる。大谷の叔父から受信。十月二十六日伊勢重兄戦死の際原隊より内通のこと。彦兄宅に家内皆(女、小生を除く)招かれる。昨日の兎食べる。夜大谷信夫君返信認める。受信小椋信夫君より年賀状。発信富民(雑誌)注文一円十銭(十二ヶ月分)

(解説)身体を鍛えるために乾布摩擦をしている。母屋には厩(うまや)があり、馬を飼育している。農耕用と、肥料製造、運搬用であり、秋に刈り取ったカヤ類(ススキ・カリヤス)や稲ワラ、豆ガラなどを給餌。カヤ類を敷いた厩では、馬の糞尿で踏ませ、それを一定日数で屋外に引き出し、堆厩肥(たいきゅうひ)として積む。これは水田やアサ、からむしの畑に入れ土を養生する。大岐の北西、志津倉山を越えた北麓の現在の三島町大谷の叔父から、家族が戦死した報が届く。夜、大谷と小椋信夫宛返信を書く。大岐に電気(電灯)が付くのは戦後の昭和二十三年なので夜は灯油ランプ下。家族の男たちは隣家の彦蔵宅に招かれ行く。昨日裏山で獲った野ウサギを食べている。一月一日も、大岐の一郎宅で野ウサギを食べている。一郎は戦後、大岐の対岸の奈良部に開墾に出る。雑誌・富民とは農業富民であろうか?購読し郵送してもらうものである。

1943年1月1日

1月2日

1月3日

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2011年1月 3日 (月曜日)

菅家福次日記:1943年1月3日(日)

■裏山で彦兄と狩り


1943年1月3日(日)晴れのち小雪
 狩り。雪は「ひざ」の上までかかる。裏山より上ワナ沢(カミワンナザア)、岩山(ユワヤマ)方面へ。裏山にて一匹射つ、発砲数二発。岩山にて彦兄と別れて帰宅。遅れ心配をかける。昼食は餅一ずつの上、岩山に三度上った。へとへとに疲れる。夜身体が痛める。身体は真白雪にもぐったよう、その上、皆凍る。夕方晴天となる。(冷水摩擦)
 (兄清次・ザル作り、とあり) 

■(解説)大岐の上手の隣家の彦兄(ひこあんにゃ:彦蔵兄者)と自宅裏山、村の鎮守・山の神があるところから上流側に行ったことが書かれている。ワンナ沢はカミとシモの2本の沢があり、そのカミワンナ沢と岩山でウサギ狩りをした。岩山に三回上ったという。昼食は山中でモチ一枚。帰路は彦兄と別々な路程で帰る、というのは、行きに見なかった地域を分かれて足跡などを次の狩りのために探しながら帰る、ということを指す。帰ったら、必ずその仲間に帰ったことを告げるが、福次の帰りが遅いので彦蔵は心配している。
 彦蔵(hikozou 明治44年8月15日生)は清氏(kiyoshi)の父親で、昭和四〇年代、大岐の男衆が関東地方に出稼ぎしていた時、子ども(小学生)の私を連れて何度も裏山に行った。十二月に正月用の松(キタゴヨウ)を採るためにカンジキを履いてオミヤ(山の神様)のある裏山行っている。彦蔵を私たちは「おんつあじい」と呼んだ。祖母トシ(明治42年生)の弟で、父・清一からみて叔父にあたるからだ。父・清一(せいいち)も彦蔵に付いて雪山を歩き狩猟を教わっている。彦蔵は平成2年(1990)7月14日に亡くなった。好きな爺様であった。そのときの私は30歳。(菅家博昭2011年1月3日記)

 →1943年1月1日

 →1943年1月2日

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↑岩山(北面) カミワンナ沢 シカブチ 喰名(クイナ) 大岐集落

↓岩山(東面)

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会員各位殿

昭和花き研究会ファクス配信2011年1月3日 博昭より

■2011年、本年もよろしくお願いいたします。
 12月25日~26日の大雪となりました。
 定例会は2月を予定しています。会社総会は2月下旬です。

■2011年のかすみ草の種苗計画(注文)が決まり次第、ファクスにて送付下さい。その場合、越冬株利用分も計画がわかっていればお教え下さい(最終的には雪消え後確認)。
  締め切り 1月8日正午

 ※中野さんファクス返信お願いします(ファクス不通のため)

 桑原さん、酒井正二さん、五十嵐陽二さん、渡部忠雄さん、石綿正一さんからは予定表は到着しています。

■報告様式は自由です。出荷時期(苗購入時期でも良い)
生産者氏名        
品種名・出荷時期(予定)・作付け株数
(例)フォレスト 9月上旬 500株、、、、

2011年1月 2日 (日曜日)

パノラマ試験

■1月2日、小雪。奥会津:昭和村大岐。集落北方から撮影。

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↑岩山   カミワンナ沢 シモワンナ沢  高畠  クイナ(喰名)

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穀物をめぐる大きな矛盾

■2011年1月2日(日)小雪・曇り

 昨日は、当家に残る2冊の菅家福次日記(1943年1月から翌年)を便利商店でA4で141枚複写した。それを今年は当家の当時20歳の青年が大岐ohmataで暮らしながら記述した68年前の1日を、同じ日に解読・解説していく。6月に徴兵検査、1944年に4月20日出征、12月に中国湖南省冷水舗で戦病死している。

■2010年2月に福島県出身の佐久間智子さんの著作『穀物をめぐる大きな矛盾』(筑波書房ブックレット43)が発刊された。では、どうすればよいのか、、、、巻末に近い71ページから要旨を紹介する。

 「豊かさ」のモノサシを変えるということは、健康にも環境にも良い食品を選び、その食品の生産コストに見合う対価を支払うことの価値に気付くといことでないかと思います。たとえば、地域で旬に採れた食材は、自らの身体と同じ気候・季節の下で育ち、その特定の気候・季節に適応するのに必要な微量栄養素を含有していると言われています。(略)

 米国のある研究では、玄米は全粒粉などの「ホール・フード(全体食)」には、未だに解明できない「フード・シナジー(食の相乗効果)」があり、ホール・フードに含まれていることが分かっている成分をすべて摂取したとしても、ホール・フードそのものを摂取した場合と同じ効果は得られないと結論づけています。(略)

 いちばんいいのは、機械や化学肥料になるべく頼らず、露地で栽培された地元の食材を、できるだけ生産者から直接購入し、自ら調理して食べること。その食材をその日中に消費するか、乾燥・塩蔵・発酵など、なるべく冷凍・冷蔵庫に頼らずに保存して消費すること。食材を無駄にせず、同時に食肉や油脂が少ない食生活をおくること。なるべく「ホール・フード」を食べるようにすること。そうしたことがある程度実現できれば、現代の農業や食料消費にともなって発生しているさまざまな環境問題や健康の問題は解決されるのです。

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皇紀2603年:昭和18年(1943)1月2日、奥会津:大岐の菅家福次20歳

■ゆきこぎ(雪漕ぎ)、狩りの弾丸詰め

1943年1月2日(土)雪
 規定兄、午前七時半頃来て出発。琵琶首まで見送る。雪は沢山ある。七、八人でこぐ。琵琶首まで二、三軒立ち寄り御馳走になる。二時頃帰宅後夕食まで炬燵にて寝る。夜、狩りの弾丸つめる。広喜君、大寺より應召の為、今日帰宅、仙台入隊。何時も精神が先決。冷水摩擦にて体験。

 主人(兄の清次)副業ザル(編み)と書かれている。

■(解説)大岐から下流4kmの琵琶首村落まで、7、8人で交替しながら雪をこぎながら出征する人を送っていった光景が書かれている。あいさつしながら行くので数軒でごちそうになったことを書いている。道無き雪の上を、一人一人カンジキを足につけて歩くのだが、あらゆき(新雪)を漕ぐ「先頭の人」にいちばん負担がかかるので、交替しながら歩く。これを「先こぎ sakikogi」という。帰宅して身体も冷え、疲れたので、炬燵で眠る。朝七時半に出て午後二時に帰宅しているから、食事の時間を考えても往復六時間かかっている。4kmの夏道だと一時間、雪道は三倍の時間がかかる勘定だ。大寺とは磐梯町で、大岐出身の人はそこで招集され仙台に入隊するので帰宅した、という。昭和村からは会津若松市の連隊に入隊する。村から若い男が次々と戦地に送られ帰ってこない。正月は休みだが、2日目から家のなかで主人(長兄の清次)はマタタビでザル作りをしている。
 夜に、狩猟のための弾丸を薬莢に詰める作業をしている。これは火薬と散弾を詰め古新聞等でふたをする作業で、昭和四〇年代まで夜の作業で、幼少の私も父・清一(昭和七年生)の「タマツメ(弾丸つめ)」を毎夜見ていた。
 大岐ではいまでも「ユキミチ(雪道)とウチマメジル(打豆汁)はあとほどよい」という。雪道は先こぎの人が付けた足跡をなぞって歩けば体力消耗が少ない。そして汁椀に大豆を木槌で打って扁平にした「打ち豆」を入れた味噌汁は、汁を吸った最後に汁椀の底に打ち豆が沈んでる。いずれも「後に歩く」ことはラク(楽)である、という俚言。

↓父・清一が2010年に作ったカンジキ。福次は清一(seiichi 昭和七年生)の父親・清次(seizi 明治40年生)の弟にあたるので、叔父になる。この日記が書かれた頃十歳で二十歳の福次(fukuzi 大正12年生)を「ふくあんにゃ(福兄者)」と呼んでいた、という。

 →1943年1月1日

  → 2010年1月 大岐でのカンジキ作り(菅家清一)

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2011年1月 1日 (土曜日)

皇紀2603年:昭和18年(1943)1月1日、奥会津:大岐の菅家福次20歳

皇紀2603年:昭和18年:癸未(キビ:みずのとひつじ)

 西暦1943年。福島県大沼郡昭和村大字小野川字大岐1723 菅家福次(大正12年生)、20歳。

 1月1日の日記。

1943年1月1日(金)晴れのち雪

 例年の旧正月制を撤廃し陽暦にて執行することになれり。年始は村人等鎮守神まいり。小野川分校に於いて在郷軍人主催にて規定兄、竹雄兄の壮行会「出席」。帰宅は夜。猛吹雪、斎藤清次氏の「タイマツ」をくれたので大助かり情状感激する。一郎兄宅で兎御馳走になる(冷水摩擦行)。

■(解説)奥会津の大岐は博士山西麓にあり、滝谷川左岸にある村落で標高730m。村の西高みに鎮守山の神様(大山祇神社)があり、年始会をそこで行った。この年から新暦(太陽暦)で行ったという。大岐の上流4kmの右岸、標高760mの小野川にある学校「小野川文教場(分校)」で在郷軍人会主催の壮行会があり菅家福次(kanke fukuzi 男・20歳)は出席。帰宅の夜は猛吹雪でタイマツを点けて大岐に雪道を歩いて戻る。一郎あんにゃ(kanke ichiro 兄者)宅でウサギ汁を御馳走になった。冷水摩擦を行っている。菅家福次は大正12年(1923)7月15日に東北南部の奥会津の昭和村大岐(ohmata おおまた)に七男として生まれたが、同年9月1日には関東大震災が発生している。大岐村落は小野川本村の端村(はむら)として、おなじ端村(木地屋)見沢とともに大字小野川(旧・小野川村)を構成している。喰丸峠を越えて喰丸、柳沢峠を越えて小中津川・下中津川など野尻川流域の昭和村中心域につながっている。滝谷川下流には下平(木地)・琵琶首・大成沢、、、とつながる。

左が1943年の日記(大阪市西区北堀江通四丁目の国民出版社発行、B6版「心の日記」)。1月1日から年末まで記述している。右「新農家日記」が1944年の日記(皇紀2604年)で4月10日まで記述している。4月11日に召集令の報があり、13日に臨時召集令状を受ける。17日夕に出征祝、18日大岐を出発、20日に会津若松市の陸軍入隊し、同年中国戦線に従軍。1945年1月15日に大岐の家では戦死公報を受け、中国湖南省冷水舗で12月3日に戦病死したことを知らされる。享年22歳。我が家に生まれ育ち、大岐の畑を耕し、その暮らした最後の日々を追う(2011年1月1日 菅家博昭)。

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明治41年(1908)南会津郡案内誌

■広告は本誌に記載していない当時の「いま」を表している。南会津農会が編さんした『南会津郡案内誌』(復刻版)。1908年(明治41年)は喜多方市山都町出身の蓮沼門三が修養団機関紙「向上」創刊。1910年に柳田國雄『遠野物語』発刊。

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ネーデルランド王国の印刷物(2010年10月、11月) 植物機能へ回帰

■植物の役割に回帰する花産業。

 2011年のカスミソウはダイナミック・ラブ(日本ではフォレスト)。

■→12月31日、日本の遺伝子組み換え交雑防止条例

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↑白いカスミソウの使い方。品種はミリオンスターやダブルタイム。

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↑2011年は「フラワー・ウオッチ」が時代の言葉

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2011年は家族の年

■2011年1月1日(土)小雪、曇り。

 朝日・毎日・讀賣・日経・産経・福島民友・民報の元旦紙面を見ると、カラー広告の出稿が少ないことがわかる。そして2011年のテーマは「家族」である。

■菅家福次日記の複写(日記①141ページ)。復刻。

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