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2006欧州視察

  • 20061101dsc00245
    2006年11月 JELFA欧州視察の個人写真記録。菅家博昭撮影。

2006年12月冬の沖縄

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    2006年12月の沖縄県内。花の生産地や街の様子。菅家博昭撮影。

2007年1月から

  • 20070401img_9892
    2007年1月から奥会津などの風景、菅家博昭撮影。

2007静岡カスミサミット東京

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    2007年2月1日に東京都内・大田市場で開催。

2007年4月から

  • 20070426img_5713
    2007年4月から、奥会津の風景、かすみ草生産作業風景など、菅家博昭撮影。

2007年5月の風景

  • 20070520img_0193
    2007年5月の奥会津の風景、かすみ草生産。菅家博昭撮影。

IFEX2007_TOKYO_01

  • 20071011ifexdsc02602
    144枚、菅家博昭撮影。幕張メッセ花の展示会。

2007年11月

  • 20071108dsc04006
    2007年10月オランダ、アムステルダムのホルティフェア、アールスメールマーケットでの印刷物資料

2010年1月

  • 20100131dsc00811
    2010年1月25日~27日、熊本県

2010年02月 かすみ草栽培

  • 20100212dsc00221_2
    2010年2月12日 かすみ草ファンタイムの砂あげ苗のポット仮植作業。撮影菅家博昭。

かすみ草写真集1

  • 20061010img_3904
    348枚。菅家博昭撮影。かすみ草生産地での撮影。

奥会津の風景01

  • 20060801img_4064
    387枚、菅家博昭撮影。おもに昭和村など。

2006北海道かすみ草サミット写真誌

  • 20060715img_0143
    2006年7月13日、14日。北海道夕張郡由仁町で開催された第4回全国カスミソウ北海道サミットinみなみそらち・ゆに

2006年夏の記憶

  • 20060913img_9418
    2006年の奥会津・昭和村、カスミソウ栽培の風景。菅家博昭撮影。

2006年秋の記憶

  • 20061114img_1169
    2006年秋の福島県奥会津の風景、カスミソウ栽培の様子など。菅家博昭撮影。

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2011年6月29日 (水曜日)

喰丸一戦之事と栃尾沢城(1525年 中津川郷)

■大正12年に大沼郡役所から編集・刊行された『大沼郡誌』は、福島県の会津地方西部の大沼郡域の歴史文化をまとめた712ページの大冊である。昭和47年に東京の名著出版から復刻版が500部出ており、それが古書店等で1万円ほどで流通している。また会津地方の図書館等でも閲覧は可能であり、ウェブ等でも内容は公開されている。→近代デジタルライブラリー

 復刻版で587ページ(デジタルライブラリーで310ページ、そして311ページ

 これは、「喰丸(くいまる)一戦」で、大芦村に掲載されている。昭和2年に合併するまでは大芦村と野尻村であった昭和村の喰丸は大芦村に属していた関係からである。

 両原聚落(当時はいまの場所ではなく古屋敷と呼ばれた上流域に原聚落があり後に移転)と喰丸聚落の間、喰丸峠のタテノコシ(舘の越)に、南会津田島(南山勢長沼氏)から舟鼻峠を二百騎が襲来し拠点として、喰丸等が戦場になった、というもの。その後、一時田島に撤退したが、再び長沼勢は野尻まで侵攻したが敗退している。そのことを書いている。

 『大沼郡誌』では、喰丸の陣場という地名、畑より鏃(やじり、縄文時代のものと思われる)出る、野尻中向の八幡に塚が五個有り、左近塚(長沼氏の家来)という、、、という大正十二年当時の伝承を付記してまとめている。

 昭和48年に昭和村が刊行した『昭和村の歴史』では中世の章で会津若松市の当時・会津史学会長の山口孝平氏がこの「喰丸一戦之事」について資料の存在をあげ、内容を一部紹介している。

 (55ページ)近世初期、おそらく元和年間あたりに、野尻山ノ内氏の最後の領主だった、山ノ内実勝によって書かれたと思われる文書(「喰丸一戦之事」)の写の中に、野尻山ノ内氏のその後のことと、戦国期の軍事的組織を記しているので付記しておこう、、、、、、

 として、後半部分の書き下し文を掲載している。課題は前半部分である。

 (44ページ)には大永五年(1525)、田島の長沼勢が野尻領に兵を出し、野尻勢と喰丸の猿舘で合戦したとき、、、(略)栃尾沢城に拠って奮戦し、長沼勢を走らせている、、、、、

■走らせている、、、というのは敗走することである。

 昨年から私が問題として調べているのは「猿舘(さるだて)」の場所、「栃尾沢城」の場所である。国有林の施業図を森林管理署から求め、調べたところ、「猿舘」の位置は、下中津川の気多渕にあった。「おあたごさま」である高舘山の稜線伝い北方である。志津倉山の南麓。

 そして、「栃尾沢城」について現在調べている。まず「喰丸一戦之事」の所在調査は、野尻山ノ内氏の子孫が旧・南郷村におられるので、山口・台の月田禮次郎さんに依頼していたが、6月中旬に電話連絡があり、その文書は不明との連絡であった。

■現在の南会津町田島には中世・長沼氏が拠点を構えてたびたび峠を北に越え侵攻していた。ひとつは現在の会津若松(当時・黒川)の芦名領への出兵で、野尻領に侵攻する4年前に下郷町大内(現在は宿場保存地区)から会津美里町(旧・本郷町)に入り、聚落を焼いている。

 『田島町史』第1巻 昭和60年(1985) 261ページ
大永元年(1521)、長帳は、「みなみの山勢桧玉に入り、ことごとく焼き候、皆々打死つかまつり、一騎も返らず候」「4月26日、屋形(芦名盛舜もりきよ)さま南の山へ御馬を出され候、5月上旬に御父いたて(伊達)よりして、御扱いにて御馬を入れられ候」とある。桧玉村は近世の福永村で、長沼勢の特攻隊のような一隊は大内から峠を越して桧玉村まで出て来て民家を焼き戦を挑んだ。芦名方の対応は早く、長沼勢一騎残らず討たれた。これが4月20日前後で、26日には盛舜は大内峠を越して南山へ侵入した。このしらせを聞いた伊達植宗(盛舜の妹を妻とする)は和睦を斡旋して芦名勢を返させた。(略)
 この戦闘が長沼氏が芦名氏に対する抵抗のはじまりで、この後たびたび小戦闘が行われる。大永四年(1524)には「旧事雑考」だけであるが「南山平らぐ」がある。

■さて、会津若松市内にある福島県立博物館の中世(歴史)担当の高橋充さんにお願いして、この「喰丸一戦之事」の所在がわかった、という連絡を受けてその原本(写)を閲覧することができました。私は、現在、体調不良で病院への通院・検査をしており、そのなかで、この資料のことを考えています。6月28日、病院の待合室で半日考えて、ひとつわかったことは、「栃尾沢城」とは「途中沢城(牛首城)」で現在の野尻にある、ということです。

  大正12年の『大沼郡誌』は、その時点での理解で補正しながら書かれたことがわかり、この時点で栃尾沢城を牛首城と表現しています。昭和48年の『昭和村の歴史』は表現そのまま栃尾沢城と表現しています。現在の地図には途中沢・途中山という記載になっています。また書いた人は中世末の野尻山ノ内当主ということで、山ノ内氏は当時、1400年代に牛首城と表現されているものを栃尾沢城と呼び、伊達侵攻により廃絶したものかもしれません。(以後、加筆します)

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