« 1868年9月8日から11日 会津 野尻組 喰丸峠 | トップページ | 1868年9月12日、喰丸峠付近の戦闘、大山柏『戊辰戦役史』より »

2013年1月 2日 (水)

1868年9月10日、柳ヶ沢から小野川村の探索目的

■『公私摘要』で、代官所からの八月二日の記録に野尻組の各村の名主衆が記述されている。( )内は私の記述。

 渡部源三郎(野尻組頭)、渡部儀三郎(野尻村名主)、小林議右門(中向村名主)、本名俊之助(下中津川村名主)、栗城浜三(小中津川村名主)、首藤徳三郎(佐倉村名主)、山内吟蔵(喰丸村名主)、星友之助(大芦村名主)、渡部栄助(小野川村名主)

 これらが野尻組内各村を代表し会津藩関係者が退去したあとに新政府軍の受入窓口、糧食、人足手配について連携しながら対応をしたと思われる。

■小中津川村名主の栗城浜三『公私摘要』の、明治元年、一八六八年九月十一日は以下のように記す。

十一日日暮方喰丸峠へ会津方参り、尤人数七八拾人、小ノ川着、喰丸沢ニ而戦争、官軍勢四、五人怪家人出来申候趣

これを考えてみる。

九月十一日
①日暮方喰丸峠へ会津方参り、尤人数七八拾人、小ノ川着、

②喰丸沢ニ而戦争、

③官軍勢四、五人怪家人出来申候趣

 これは、九月十一日の夕方(日暮方)に、小野川村と喰丸村を結ぶ喰丸峠の喰丸沢で会津藩兵と官軍(新政府軍)の戦闘があり、四、五人の怪我人が官軍兵に出たというものである。

 記述内容を見ると①で会津方とあるのは会津藩兵で、その人数は七十人から八十人で小野川村に着き、夕方に喰丸峠に向け進軍した。②戦闘が行われたのは小野川村から喰丸峠を進み、峠を下り始めての喰丸沢である。③官軍に四人から五人の怪我人が出たようであり、「出来申候趣」で直接浜三が確認したわけではない。

 『復古記』の記録に喰丸峠の戦闘での新政府軍(官軍)側の死傷者の記録は無い。
 官軍は「賊軍」とする会津藩兵を、浜三は「会津方」という表記をしている。新政府軍が入村するまでは会津藩の立場で戦争を支援しており、小中津川村の名主という立場があり、心情的にも会津藩であったろうが、情況の変化に従うしかない。
 野尻組内の村人の情報網、宿泊している新政府軍の兵士からの情報、兵士の行軍に付随する人足出役した村人からの情報に浜三は接していたと思われる。

 喰丸峠(標高八七三m)は東側が小野川村(標高七六八m)、西側が喰丸村(標高五四〇m)で、喰丸沢となっている。現在、国道四〇一号喰丸トンネルの西手口に「けやきの森遊歩道」が喰丸峠である。
 会津藩兵は峠側、つまり山の上手にいて、官軍は沢の下から前進する、という形で有利に戦闘が行われたと思われる。

 課題は、浜三が九月八日から十日の項に記している官軍が柳ヶ沢からなぜ小野川村に向かったのか?ということである。以下原文を分けて掲載してみる。

①八日 拾人計 布沢村より七ッ時分 中向へ参り、

②会津方落人並長岡浪人参居不申候哉、厳敷御探索、其外刀鎗鉄砲兵器之類預り置不申候哉御尋、

③明早朝参り村中尋候趣ニ而

④同日直様御引返ニ相成、

⑤九日尚又参り下中津川村迄参り、右之廉々御尋ニ而

⑥是又引返野尻泊リ、

⑦其翌日十日当村迄参り、上筋村々江御出ニ可相成と在居候処、

⑧直ニ柳ヶ沢通御案内、

⑨当所より弐人罷出びわ村より小野川通、喰丸より御返り、

⑩下中津川御泊りニ相成申候、

⑪尤先陣ハ松本勢。

 ①は九月八日に新政府軍(官軍)の兵士が十人ばかり布沢村から吉尾峠を越えて野尻組中向村に来た。その時間は七ッ時としている。これは午前四時か、午後四時に該当する。浜三の記録を見ていると暮方(夕方)七ッ時という表現もあることから、午前四時という可能性も否定できない。

 ②で中向村で対応したのはまずは名主家だと思われる。聞かれたのは「会津藩の落人、長岡浪人」が来ていないかどうか?これは越後長岡で新政府軍は会津藩兵・長岡藩兵等と戦闘しており、これらが八十里越から会津領内に敗走していることを示している。
 ③では、明日、九日の早朝に来て中向村の一軒一軒を探索する、ということを告げて④吉尾峠を布沢に新政府軍兵は帰った。

 ⑤九日に新政府軍兵が来て中向村、下中津川村まで集落内を調べ、⑥野尻村に帰り宿泊した。この時の人数は八日の十名より増えていると思われる。組内北側の野尻村、松山村等も調べたのだろう。この探索のなかで新政府軍は博士峠から小野川村に会津藩兵が来ていることの情報を得たものと思われる。

 ⑦十日、これら新政府軍兵は名主家の浜三の小中津川村折橋集落まで来る。組内ですでに隣の下中津川村まで新政府軍兵による集落内探索が行われたことから、浜三は小中津川の次は佐倉村、喰丸村と行くのだろうと想定していた。しかし、ただちに柳ヶ沢(現在の柳沢峠)から先に行くからと言われ、案内人の村人を二人出した。

 当時の柳沢峠は小中津川折橋・上田集落から志津倉山の東尾根から現在の柳津町琵琶首、下平木地集落が本道で、大岐に抜ける現在の村道は脇道であった。
 新政府軍兵は小中津川村人二名の案内で、琵琶首から端村の大岐を経て小野川村、喰丸峠から喰丸、佐倉、小中津川と歩いている。

 私の暮らす大岐では「会津戦争の時に大岐集落内の橋の近く、勝衛爺様の土蔵のところで斬り合いがあった」という伝承がある。これは九月十日のこのことなのか、十一日、十二日のことなのかは不明であるが、浜三の記録には無い。この日の探索は小中津川村人案内人が二人随行しているなかで起きた事件があれば浜三に伝えられ記録された可能性はある。
 ⑩これら新政府軍の兵は下中津川村に泊まり、これら先兵は松本藩所属の兵士であるとしている。

■『復古録』「復古外記 越後口戦記 第十三」明治元年九月十一日の信州の松本藩の記録を見る。

 「戸田光則 旧松本藩家記」は

①弊藩鶴見六野右衛門隊、九月十日、野尻村迄著陣イタシ候処、賊兵数百人、小野川村二屯集罷在、追々繰出、野尻村之方ヘ廻リ候趣相聞候ニ付、加藩一小隊、弊藩一小隊、小中津川村辺迄進撃可致旨、

②翌十一日、参謀代河野利助方ヨリ談示有之ニ付、即刻兵隊繰出シ、喰丸村迄相進候処、

③賊兵同所峠へ押来リ、八ッ時過ヨリ、発砲及び戦争、七ッ時過ニ至、賊徒悉打払、

④尚夫々厳重守衛罷在候。
 
 浜三の記録では九月八日から新政府軍の松本藩兵が十人ほど野尻組中向村に来て、九日に下中津川村まで来て野尻村に泊。この間、松山村・野尻村・中向村・下中津川村までの一軒一軒ごとの探索を済ませた。十日の探索後は下中津川村に泊まった。なお十日には六百人が滞陣したともしている。

 十日に戸毎の探索隊のほか、小野川村に向かう一隊を小中津川村人二名が案内した。なぜ小野川村に行ったかということがこの松本藩の記録①でわかる。

 ①松本藩の鶴見六野右衛門隊が十日に野尻村に着陣した時点で、賊兵(会津藩兵)が数百人、小野川村に駐屯している。会津藩兵は野尻村を攻めるという情報がある。そのため加賀藩一小隊と、松本藩一小隊を小中津川村まで進めた。

 この時に小中津川村名主浜三宅に松本藩兵が来て、「ただちに柳ヶ沢から小野川村を案内せよ」、と指示されたものと思われる。松本藩兵の目的は琵琶首から大岐、小野川村までの現在の滝谷川上流域から博士峠までの会津藩兵の情報の探索(斥候)である。喰丸峠を経て野尻村まで来る可能性があるから脇道の柳ヶ沢から琵琶首、大岐から小野川村に慎重に接近したと考えられる。小野川村内に会津藩兵が滞陣している、あるいは博士峠を越えた谷ヶ地村に会津藩兵が在陣しており、会津藩の斥候が小野川村に来ていることを確認し、喰丸峠から急いで帰ったものと推察する。それは現在の会津美里町の沼ノ平に会津藩兵の一隊が陣を構え、下谷ヶ地に兵を置き、博士峠越えで小野川村から喰丸峠を経て進軍してくる、かなり正確な情報であったと推察される。そのため後日十二日、新政府軍の遊軍隊は早朝に二回目の喰丸峠の戦闘を経て、小野川村から一気に博士峠を越して下谷ヶ地で戦闘し会津藩兵一名を殺し、一名を生け捕りにしている(生け捕りか討ち取りか不明だが会藩服部留吉と記名)。

 
 前日の、九月九日の野尻組内下中津川村までの探索で、すでに新政府軍は『小野川村に会津藩兵が数百人が駐屯し、進軍(繰出)、野尻村を襲う」という情報をつかんでいたと思われ、野尻村には会津藩の御用場(代官所)がおかれ郷頭がいる。新政府軍の本部である「会議所」と「大小荷駄係」も設営された。

 馬場勇伍『乱雲戊辰の晩秋』の百十二頁によると、現在の野尻集落内の元町のなかほどより少し下り、野尻川に近い場所に、二軒の家を持つ渡部作衛門という人の空き家が会議所として用いられたと思われ、大正年間に廃屋となったが、御陣屋屋敷と呼ばれている。会議所には物資の出し入れ役の大小荷駄役もいたようである。この御陣屋の前には、大きな栗の木があり、大きな実を付ける栗で晩生種の樹種であった。この実から育てた栗の木は中向の北側の山裾に植えられ百年近くなる、という。

2013010220130102

20130102

« 1868年9月8日から11日 会津 野尻組 喰丸峠 | トップページ | 1868年9月12日、喰丸峠付近の戦闘、大山柏『戊辰戦役史』より »

野尻組の会津戊辰戦争」カテゴリの記事

September 2020
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

KANKE/リンク

かすみ草写真集1

  • 20061010img_3904
    348枚。菅家博昭撮影。かすみ草生産地での撮影。

奥会津の風景01

  • 20060801img_4064
    387枚、菅家博昭撮影。おもに昭和村など。

2006欧州視察

  • 20061101dsc00245
    2006年11月 JELFA欧州視察の個人写真記録。菅家博昭撮影。

2010年1月

  • 20100131dsc00811
    2010年1月25日~27日、熊本県

2010年02月 かすみ草栽培

  • 20100212dsc00221_2
    2010年2月12日 かすみ草ファンタイムの砂あげ苗のポット仮植作業。撮影菅家博昭。

2006年夏の記憶

  • 20060913img_9418
    2006年の奥会津・昭和村、カスミソウ栽培の風景。菅家博昭撮影。

2006年秋の記憶

  • 20061114img_1169
    2006年秋の福島県奥会津の風景、カスミソウ栽培の様子など。菅家博昭撮影。

2006年12月冬の沖縄

  • 20061203img_3812
    2006年12月の沖縄県内。花の生産地や街の様子。菅家博昭撮影。

2007年1月から

  • 20070401img_9892
    2007年1月から奥会津などの風景、菅家博昭撮影。

2006北海道かすみ草サミット写真誌

  • 20060715img_0143
    2006年7月13日、14日。北海道夕張郡由仁町で開催された第4回全国カスミソウ北海道サミットinみなみそらち・ゆに

2007静岡カスミサミット東京

  • 20070201img_9619
    2007年2月1日に東京都内・大田市場で開催。

2007年4月から

  • 20070426img_5713
    2007年4月から、奥会津の風景、かすみ草生産作業風景など、菅家博昭撮影。

2007年5月の風景

  • 20070520img_0193
    2007年5月の奥会津の風景、かすみ草生産。菅家博昭撮影。

IFEX2007_TOKYO_01

  • 20071011ifexdsc02602
    144枚、菅家博昭撮影。幕張メッセ花の展示会。

2007年11月

  • 20071108dsc04006
    2007年10月オランダ、アムステルダムのホルティフェア、アールスメールマーケットでの印刷物資料

2015 からむしフェア

  • 201507_19img_6580
    2015-07-18,19福島県’奥会津’昭和村で開催された第30回からむし織りの里フェアより。昭和村佐倉(からむしフェア)、喰丸小学校(新作記録映画 春よこい)大芦(からむし畑見学・からむし剥ぎ、からむし挽き。保存協会)地内。菅家博昭撮影。76枚掲載(372枚撮影)。キャノンEOS、ソニーTX。
無料ブログはココログ