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2013年1月 4日 (金)

菊地・伊東『戊辰戦争全史』(一九九八)での大芦の戦い

■菊地明・伊東成郎『戊辰戦争全史(下)』(新人物往来社、一九九八年)。百八十八頁からの「南方の戦い」にみる大芦の戦いは、文中の方位の誤りや『復古記』の事実関係やその解釈では異論※もあるが、以下に記す。内容は、大山柏『戊辰役戦史』を踏襲している。

 越後方面から会津領に入るルートの一つに、八十里越峠がある。この周辺は長岡藩の山本帯刀率いる隊が八月下旬まで守備していたが、彼等が只見川沿いに会津平野方面へ転進したのち、西軍は会津嶺の叶津まで前進した。時期的にもう少し早ければ、津川口から阿賀川沿いに会津平野をめざす部隊と策応して、大きな戦果をあげられたはずである。いずれにせよ八十里越からの西軍は大別すると、

 一、只見川沿いに横田-川口-滝谷-柳津をめざして会津平野方面へ向かった、いうなれば左翼隊。

 二、只見川の、叶津村から二十キロ下流に、南方から注ぐ野尻川流域、野尻村-中向村-中津川村(現・大沼郡昭和村)へ進んだ中央隊(ただし、現在の只見川流域、川口村からのルートではなく、叶津村寄りの横田村から松坂峠を越え、布沢村から中向村へ出たか、後述する伊南川流域の大倉村付近から布沢村を経たものであろう)。

 三、只見川の、叶津村よりもやや上流に、南方から注ぐ伊南川流域、黒谷村-大倉村-小林村-界村-山口村方面へ向かった右翼隊。 

以上の三隊に分散した。このうち、左翼隊は順調に只見川に沿って前進し、九月中旬の会津高田北西での戦闘に参加している(松代兵)。また、中央隊は九月十日に中向村に到着し、十一日には南東八キロの喰丸村で会津兵と衝突(松本・高崎。金沢の斥候兵)。遊軍隊が出向いて、翌十二日会津兵を田島方面に退却させたが、追撃せずに博士峠を越え、会津高田方面をめざした。

会津高田の戦いにおいては、南西方向からの攻撃に参加している。松本・金沢・高崎の兵は前進せずに、野尻川周辺の集落で守備についた。
 一方、会津軍の動向は、九月十七日の一ノ堰の戦いや、十八日の会津高田の戦いで敗退した部隊が、南方の山中を経て田島村に集結している。

陣将佐川官兵衛は、田島北西の野尻川流域と西方の伊南川流域に屯集している西軍の掃攘を企図して、九月二十二日に両方面へ部隊を向かわせている。まず、前述した西軍の中央隊は、野尻村南東の小中津川村-喰丸村-両原村、さらには両原南方(※北西方)の大芦村を、金沢・尾張・高崎の兵で固めていた。

会津側は、朱雀三番士中隊と進撃隊が田島北西の船ヶ鼻峠を越えて大芦をめざし、朱雀三番寄合組隊は西へ向かって転石峠から大芦をめざした。船ヶ鼻峠からの二隊は、大砲を備えた農兵達に大芦北西の両原村方面を牽制させ、その間に主力の兵が大芦村の村端と中央部から突入する計画をたてたが、二十四日の朝になっても牽制の砲声は聞こえてこなかった。山上は霧におおわれていたが、集落は見通しがきいたので、西軍の兵士たちが活動を始めない内に、会津兵は抜刀して大芦村へ斬り込んだ。

 朝食中であった西軍の兵は不意をつかれて山中へ敗走。会津兵はこれを追撃している。このころには、転石峠方面から迂回した朱雀三番寄合組隊も合流したらしいが、両原村方面に備えた農兵の牽制が一向に行われないので、西軍は野尻川下流の中津川村付近で隊伍を整え、増援隊も加えて反撃に出た。両軍は、大芦村と中津川村のあいだにある矢ノ原湿原付近で衝突。会津軍は西軍の銃火に圧倒されて大芦村へ退いている。この戦いで、朱雀三番寄合組隊の半隊頭野村新平(二十五歳)が戦死。墓は同所に現存している。

 会津軍は大芦村に拠ったものの、矢ノ原方面の山中から西軍の射撃をうけ、支えきれずに夕方には撤退。この際、小高い鎮守の森にある社殿に火を放ち、集積してあった弾薬を焼却したと伝えられている。朝方、西軍から捕獲した物資の中には、村民を利用して浅布村方面へ運んだ品物もあるが、自分達の銃に適合しない弾薬は、ふたたび西軍に利用されないように焼却したらしい。

 会津軍は東方の浅布村をめざして退却しているが、大芦村の出口、屋敷原にとどまって殿軍をつとめていたと思われる、朱雀三番士中隊の隊士角田五三郎(二十三歳)は重傷を負ったので、同僚が介錯して首のみを持ち去り、浅布村へ埋めたという。また、胴体を埋めたと伝えられる小丘陵は昭和時代末期ごろまで残っていたが、屋敷原周辺の土地改良によって現在は平地になってしまっている。

 こうして、西軍中央隊に対する攻撃は失敗に終わったが、同じ日に田島村を出発し、西軍右翼隊の方面(伊南川流域)へ向かった会津軍は、鈴木多門を隊長とする砲兵隊である。大山柏は『戊辰役戦史』において、「砲を有する歩兵隊に過ぎないようだ」とし、その砲種もこの時期になると「軽臼砲程度」で、兵力は「多くてもせいぜい二百名程度、先ず百名内外であったと想像している」と述べている。

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