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2013年1月19日 (土)

九月九日、田島陣屋奪回(南会津町田島)

■■会津戊辰戦争での九月二十四日の大芦の戦い(昭和村大芦、矢ノ原等)を考える時、南会津郡・大沼郡での戦闘を考える必要がある。野尻村(昭和村野尻)に新政府軍の本部司令所である会議所がおかれたことから、前線から兵の支援等の伝令が来て、それに対応して派遣しているからである。
 伊南川戦線での新政府軍の敗走により野尻組内(昭和村)の新政府軍の小隊が、峠越えで伊南川沿いに派兵され大芦村の守備隊が手薄になっているからである。この時期の会津藩兵は新政府軍の大小荷駄(弾薬、貨幣、食糧等物資)の分捕りが主な目的である。
 田島陣屋を九月九日に奪還した会津藩は十五日に黒沢新田村に拠点を作り、転石峠から大芦村、駒戸峠(当時の表記は駒戸)から山口村を攻撃すべく準備をしている。

 一九八八年に刊行された『田島町史 第二巻』は町史編纂室長室井康弘氏の執筆による「戊辰戦争」が所収されている。会津藩の陣屋がおかれた田島(南会津町田島)の様子を中心として記述されている。

 八月二十九日に新政府軍(芸州兵・肥州兵)は山王峠から田島を制圧し、会津若松城をめざし、翌日大内(下郷町)に向かう。田島には若干の兵が残った。
 九月九日に会津藩方の農兵が中心となり田島陣屋は奪回される。芸州兵は今市(栃木県日光市)まで敗走している。
 室井康弘氏は現存する地元の史料を分析して、『会津戊辰戦史』(山川健次郎監修)による九月十日の田島奪回ではなく、「田島陣屋奪回戦は、大内を占拠した会軍が田島に来たのではなく、田島周辺の名主を中心とする農兵隊が活躍した戦闘だったことがわかる。日時は九月九日朝である。ただ、この作戦の指揮者、或いは計画者に会津藩の武士がいたのではないかとも思われる。白井伝左衛門がどのような人物なのか、まだ明らかではない。九月九日の朝に日時を定めたのも、佐川隊の大内攻撃の報があって、それに合わせたものであろう」としている。また、
 
 佐川隊の大内・倉谷の奪回の第一目的は兵糧・弾薬の分捕りにあり、田島陣屋の場合も同じような戦果は上がった。佐川隊は早速若松城内に向けてこれを輸送している。ところが大内から田島、さらには山王峠の先まで、この日光口より西軍勢力を一掃したことは、奪回の戦略的効果を予想外に高めた。田嶋陣屋へは会津の兵力が増強された。それは後述のように伊南川を南下する西軍の阻止と、野尻組(現・昭和村)に拠点を作った西軍の攻撃を計画してのものであった。(略)
 越後より叶津村(現・只見町)出てくる八十里越を越して侵入したのは九月二日で、その兵約二〇〇〇名、主に信州兵で、松代・松本・須坂・高遠・飯田の諸藩、その他にも尾張・金沢・高崎の兵も混っていた。
 彼等は叶津村より只見村・黒谷村、伊南川を渡って小林村へ遡り、大部分は伊南川の支流布沢川をさらに遡り、吉尾峠を越して野尻組の中心野尻村に布陣した。野尻には指令所が設けられたというが、西軍侵入の時は会津方落人・長岡浪人などの探索、兵器類の所持の様子を調べながらの行軍であった。六〇〇名もまとまって入り込んだのは九月十日という(「公私摘要」昭和村蔵)。
 越後からの西軍兵は黒谷村で二つに分かれ、高遠・飯田・加賀(金沢)の兵が伊南川左岸を上流に進み、九月十四日に大橋村(現南郷村、山口川向かい)に達した。ここで会幕連合兵が五、六〇〇名来襲するとの噂が入り、大橋村に陣地を築き、川向いの山口村にも兵を出して駒戸峠を越して来る相手に備え、あとは斥候兵を出して探っていた。
 ここで(会津藩の)田島陣屋で立てた作戦は、兵を舘岩廻りと駒戸峠越しの二隊に分け、山口・大橋の両兵を一挙に破る方法をとった。(略)

 九月十五日頃から伊南川筋攻撃の準備として駒戸越え作戦の基地が針生村の東の黒沢新田村に設けられた。これは野尻組に対しても転石峠の起点になっている。
 これら高野組の村々は山かげの野尻組や伊南川筋の西軍が動き出し、「浅布(船鼻峠入口)・黒沢・針生口に時々官軍が参り、もっての外さわがしいので、百姓どもは村を離れられないから、川島組へ応援を頼む」ということであった。
 なお、会津若松城落城後の九月二十五日には、黒沢村に設けられた代官出張所より川島組触継名主 星周吾宛に、川島組の村々から詰めていた農兵共が先日より昨夜までに無断で村に帰ってしまったから、村々の指揮人と一同して黒沢へ出てくるように、との指令があった。もう代官所の統制力は農兵からも見限られていたろうし、或いは落城の情報を出張所より先に耳にしていたかもしれない。そうだとしても、無断で勝手に追々帰村してしまったことは、末期症状とみるしかない(以上「関本村役場萬控帳」より)。

■二〇〇四年に発刊された『只見町史 第一巻』は地元の飯塚恒夫氏が伊南川沿いから只見地域の「戊辰戦争」について詳述している。野尻組(昭和村)に関係しては布沢村から吉尾峠、野尻村・中向村との関連である。
 大芦村での戦闘が行われた九月二十四日は、布沢村・滝沢村等で戦闘が行われている。その後も金山町域での戦闘が継続する。大芦村での戦闘が会津戦争の最後の戦闘ではなく、会津若松城が開城、会津藩が降伏した後に、最大の戦死者を出したのが大芦村での戦闘であった。

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