« 大芦家冬季講座(3)奥会津のからむしとアサを考える | トップページ | 大芦村の会津戊辰戦争、あたらに確認したこと »

2013年1月 9日 (水)

野尻組(昭和村)の会津戊辰戦争、新政府軍、加賀藩今枝隊の記録

■二〇〇七年に、馬場勇伍氏は『ふるさと民俗文化シリーズ4 歴史ロマン 夢と現の走馬燈』(昭和村役場総務課刊、全二十九頁、非売品)を刊行している。これは当時、コラムを連載していた『広報しょうわ』の二〇〇四年から〇五年までの連載分をまとめたものである。
 二〇一三年一月七日、昭和村下中津川の本名信一氏(昭和村文化財保護審議会委員)宅を訪問した際に、この冊子の存在を教示され、翌日、役場に行き内容を確認した。

 二〇〇一年に馬場勇伍氏は『乱雲戊辰の晩秋 会津戊辰の役 大芦の戦い』(昭和村教育委員会、A4版全百七十三頁、現在もからむし工芸博物館で頒布している)。その後に明らかになったことを「戊辰戦争大芦編 追加」(二〇〇七年)としている。以下に概要を紹介するが、馬場氏が引用に使用された原著作物は加賀藩(石川県)の戊辰北越戦争関係の各兵士・部隊の戦争調書によると思われるが、その資料名は記載していない。
 たぶん、石川県金沢市立玉川図書館 近世資料館に所蔵されている資料と思われる(「北越出師書類抄録」「加賀藩北越軍事輯録」「北越之役戦死者墳墓明細表」「今枝民部手兵一中隊戦状」等)。今後、原典にあたり内容確認の調査を行いたい。

■馬場勇伍「戊辰戦争大芦編追加」(全文を原文のまま転載、二〇〇七年)。

平成十三年「戊辰戦争大芦の戦い」を昭和村教育委員会から出版していただいたが、その後わかったことを追加しておくことにしたいと思う。但し既にご承知の方が多くお出になると思うが、その点はよろしく。  官軍ということで大芦に陣を張っていたのは、加賀藩の今枝隊、春日隊、高崎藩で、春日隊は山崎に、高崎隊は中組に、今枝隊は赤田に宿陣していたとある。
 今枝隊は九十二名で、士分が七十三名、卒が十九名。高崎隊、春日隊は五十名くらいのようである。  今枝隊というのは、加賀百万石の重臣の一人で、一万四千石という大名になれる程の禄高の名門の将で、自前でも兵士を養っていたともいう。長岡攻撃に参加して、その主力は九月十一日、津川へ出陣、十五日に砲隊を津川へ置いて、九十二名が九月十六日、塔寺を経て滝谷迄進撃している。  十六日、今枝隊は中向に到着、二十日に大芦に入る。
 今枝家の主の、今枝民部は人持組という藩の中の重要な格で、本名は直応という。当時五十四才であった。大芦に今枝軍が来たのであるが、当主民部は大芦迄は来なかった。民部には長男茂太郎と、二男栄二郎があり、茂太郎は二十四才で小隊の司令士、二男栄太郎は、二十一才で半隊司令士であり、二人が一中隊を指揮して、今枝隊としての大芦出陣だった。「今枝民部手兵一中隊戦状」に会津軍の急襲をうけた時、「民部が長男茂太郎兵を励まし之に当たる」とある。  春日隊は、十八日、中向に至る。とあるが、九月二一日の頃には、春日隊新発田及び中向にありとあるから、大芦へは五○名位の一分隊が出陣していたのではないだろうか。  今枝隊は、十月九日、大芦を引上げ、十三日、新発田へ退陣とある。  今枝隊は、十九日、砲隊を津川へ留めてきたとあるが、台場という所があり、又、大砲の弾が残されてあるので、二ケ所か三ケ所位は大砲をすえた台場があったようであるが、それはどの藩のものであったのかはっきりしないが、今枝隊も大砲は持ってきたと思うが。
 大芦の警備は、田島の会津軍を警戒してのものであったので、見沢口、黒沢口等に一分隊程を交互に配備していたようで、道路を見おろせる少し高台の山の方に陣を張っていたという。

 黒沢口は、今の山神平の方へ行く所で、会津藩士が突入し、家に火を放し銃声が聞こえたので、急いで中組の方へ帰ってきた。黒沢口には警備がいなくなったところを、朱雀三番寄合組隊二五名は大芦へ突入出来たということであろう。  山神社から攻めおりた会津軍は今の立派な石段をおりたのではない。今の石段は、明治十四年八月に造ったもので石段はあの戦争は知らない。  官軍は兎に角不意をつかれて逃げ出すのに精一杯だったようである。戦況が不利で下中津川方面へ退却したとは書いてあるが、あわてふためいた様子はあまり書いてない。
 小中津川、下中津川方面へ退却した官軍は陣を立て直して、矢の原へ攻めのぼってくるのであるが、小中津川に陣取っていた今井久太郎隊の応援もあったが、このうち三名が戦死している。

 淵川忠之助軍曹直接の指揮で、反撃に出たのであるが、会津軍に対しては、山の上から鉄砲を打ちおろしたとあるので、刀で切り合いするという戦い方ではなかったようである。会津藩が何十人、何百人かはっきりしないので、うっかり刀で切り込んで行くわけにはいかなかったであろう。

 矢の原であの野村新平が戦死しているが、官軍の鉄砲は、スペンセル銃とかいって英国製かも知れない。元込七連発だったという。  野村新平半隊頭は、分隊長というところか。彼の死は恐らく鉄砲だろうと思う。この野村新平をたおしたのは、今枝隊の兵士佐藤清兵衛であるという。
 この時の野村新平が持っていた品々の記録がある。

 「野村新平所持之品」という項に、
   一本 鞭
   一本 黄木綿旗
   一枚 袖印
  一通 教訓状  

これだけで、他に武器は持っていなかったのであろうか。袖印は、両肩に味方識別の小さな旗のようなものをつける。これを旗印という。

 加賀藩等の研究者の問では北越戦争といっているようで、長岡城攻撃が大きな目標だったのかも知れない。いろいろな見方もあって、前田百万石の重臣中、今技や津田の二大家にだけ出陣を命じて、同じ重臣の横山、本田家は動かすことなく終わったということは、どういう背景かがあったものか。

 それから九月二十四日大芦戦争が終わって、大芦に宿陣していた今技隊の内二○人が、小中津川へ来て一泊している。兵糧方二○泊りとある。兵糧準備のために来たのかも知れない。

 又、淵川軍曹の階級の位置と権力は、戦う最高責任者だったものか。彼は御親藩の一人ではなかったのか。
 九月二十四日朝、会津藩の急襲をうけた官軍は、虚をつかれ、統制のとれぬまま、矢の原道、田ノロ方面へ逃げるのに精一杯だったようである。
 せめて二十三中に、田島の佐川官兵衛へ降伏した旨、知らせることが出来たなら、会津方も官軍も、責重な、大切な命を落とすことはなかったものを、と残念でならない。

(以上、馬場勇伍原文)

■今回の調査(菅家)でわかったことだが新政府軍の御親兵の淵川忠之助軍曹は、常陸(水戸藩内)出身の陸援隊士。また十津川郷兵も九月下旬に野尻組に来ている。

 大芦村に進軍した会津藩三隊は、朱雀三番士中隊二十五名、進撃隊五十名は、舟鼻峠から広平を経て尾根を越え輪の沢沿いに北進し、三隊にわかれ愛宕山には登っていない。ただ朱雀三番士中隊の一部(あるいは進撃隊の半隊)は大芦村の鎮守である大山祇神社(山神社)境内から本営たる中組の名主家に発砲している。

 黒沢口(転石峠)から進軍した朱雀三番寄合組隊は大芦村到着が遅れ、またその人数、戦闘内容は不明である。このなかの野村新平隊士と道案内の赤田坪の佐藤音之助が矢ノ原で戦死している。これは敵状偵察のための斥候役として数名で矢ノ原道を進み、反撃進攻してきた新政府軍と遭遇したものと考えられる。寄合組隊の本隊は大芦村村落内にいたものと思われる。進撃隊士の手記をみると、遅れて到着した寄合組隊は戦闘をしないうちに、新政府軍の反撃にあい、三隊で退却している。

 

« 大芦家冬季講座(3)奥会津のからむしとアサを考える | トップページ | 大芦村の会津戊辰戦争、あたらに確認したこと »

野尻組の会津戊辰戦争」カテゴリの記事

September 2020
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

KANKE/リンク

かすみ草写真集1

  • 20061010img_3904
    348枚。菅家博昭撮影。かすみ草生産地での撮影。

奥会津の風景01

  • 20060801img_4064
    387枚、菅家博昭撮影。おもに昭和村など。

2006欧州視察

  • 20061101dsc00245
    2006年11月 JELFA欧州視察の個人写真記録。菅家博昭撮影。

2010年1月

  • 20100131dsc00811
    2010年1月25日~27日、熊本県

2010年02月 かすみ草栽培

  • 20100212dsc00221_2
    2010年2月12日 かすみ草ファンタイムの砂あげ苗のポット仮植作業。撮影菅家博昭。

2006年夏の記憶

  • 20060913img_9418
    2006年の奥会津・昭和村、カスミソウ栽培の風景。菅家博昭撮影。

2006年秋の記憶

  • 20061114img_1169
    2006年秋の福島県奥会津の風景、カスミソウ栽培の様子など。菅家博昭撮影。

2006年12月冬の沖縄

  • 20061203img_3812
    2006年12月の沖縄県内。花の生産地や街の様子。菅家博昭撮影。

2007年1月から

  • 20070401img_9892
    2007年1月から奥会津などの風景、菅家博昭撮影。

2006北海道かすみ草サミット写真誌

  • 20060715img_0143
    2006年7月13日、14日。北海道夕張郡由仁町で開催された第4回全国カスミソウ北海道サミットinみなみそらち・ゆに

2007静岡カスミサミット東京

  • 20070201img_9619
    2007年2月1日に東京都内・大田市場で開催。

2007年4月から

  • 20070426img_5713
    2007年4月から、奥会津の風景、かすみ草生産作業風景など、菅家博昭撮影。

2007年5月の風景

  • 20070520img_0193
    2007年5月の奥会津の風景、かすみ草生産。菅家博昭撮影。

IFEX2007_TOKYO_01

  • 20071011ifexdsc02602
    144枚、菅家博昭撮影。幕張メッセ花の展示会。

2007年11月

  • 20071108dsc04006
    2007年10月オランダ、アムステルダムのホルティフェア、アールスメールマーケットでの印刷物資料

2015 からむしフェア

  • 201507_19img_6580
    2015-07-18,19福島県’奥会津’昭和村で開催された第30回からむし織りの里フェアより。昭和村佐倉(からむしフェア)、喰丸小学校(新作記録映画 春よこい)大芦(からむし畑見学・からむし剥ぎ、からむし挽き。保存協会)地内。菅家博昭撮影。76枚掲載(372枚撮影)。キャノンEOS、ソニーTX。
無料ブログはココログ