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2013年3月 5日 (火)

時代変化への対応と上布生産

■2013年3月5日(火)

 3月4日(月)は久しぶりの晴天であった。5日午前に大芦家で開催される冬季講座「奥会津のからむしとアサを考える」の最終回(5回目)の資料を準備した。A3-18枚。

 3月6日(水)午前は郡山市内で、かすみ草の取引会議(開成生花、あさかのフレッシュ、YB)。

■1987年に刊行された平良市(現・沖縄県宮古島市)史編纂委員会編『平良市史 第七巻資料編5民俗・歌謡』の「第五節 上布生産」に次のようにある。

 宮古島字西原の崎山カニメガさん(明治四十二年生まれ)は、「ブー(苧麻・からむし)栽培。種類にはアオブー、アカブー、白ブーがあり、栽培面積は約三十坪で、二か所に分かれている。苧麻は風に弱く折れやすいので、冬の季節風のかからない石囲いの裏庭やカフツなど、風当たりの少ない場所を選んで栽培する。新芽が出て三十五日から四十日で刈り取れるが、肥培管理がよければ年六回は収穫でき、春から夏にかけての時期が最も生育がよく、良質のブーがとれる。これをビーズン・ブーといっている。上布生産が盛んなころは、苧麻の自家栽培は各地でよく見られたが、現在は少なくなり、西原で栽培しているのは十五軒で、老婦人たちの手によって管理されている」(166頁)

■大正から昭和十二年ごろまでが宮古上布の隆盛期で、年間一万四、五千反ほどの生産があった。昭和十一年ごろ、上布一反の値段は百円~百二十円であった(略)。農村では糸紡ぎ、町では絣括り、染めと織りというように分かれ、全島的に生産が盛んで、宮古の三大産業(砂糖、上布、鰹節)のひとつであった。

 日中戦争が起きると需要は激減、価格は暴落し、戦争中は上布生産どころの騒ぎではなくなった。宮古上布が再興したのは昭和二十五年ごろからである。最初は五百反くらいで、昭和三十年ごろには千二百反まで伸びたが、その後は衰退し現在三百反である。年々減産の一途をたどり、伝統技能をもつ人達も高齢化している現状を考えるとき、宮古上布の将来は不安である(173頁)。

■2012年の宮古島市教育委員会編『宮古島市史 第1巻』では、宮古上布生産に関して、明治十五年(1882)に田代安定による「沖縄県下先島回覧意見書」が掲載されている(280頁)。  →ウィキ田代安定

 →日本苧麻興業意見

 →台湾の日本人 田代安定

 「苧麻(カラムシ)」については「彼ノ名誉ノ細上布ヲ織ル元質ニシテ、従来沖縄本島ヨリ輸入セリ。故ニ若(も)シ彼ノ地ニテ苧麻ノ不作ヲ告ルトキハ、上布モ出スコト能(あた)ハス。是レ、将来苧麻ノ耕作、本島ニ於テ免(まぬか)ルヘカラサル所以(ゆえん)ナリ」

 これは、沖縄県下の諸島を調査した博物学者(植物学、動物学統)田代安定が、明治十五年当時の宮古島における上布生産は、沖縄本島北部で生産される苧麻原料(原麻)を購入して糸を作り織っているので、生産地が不作になれば宮古島における上布生産に大きな影響がでる。そのため宮古島内での苧麻栽培・生産をすべきである、という提案である。家屋まわりの小規模な畑から生業としての苧麻生産が続けられるなか、それを上まわる産業としての苧麻布生産は、島外から原料を求め、それは沖縄本島北部や西方にある台湾(日清戦争後、台湾併合日本占領下)からの購入により明治後期・大正・昭和十二年ころまで続く。

■田代安定は台湾の台北市にて大正六年(1917)に『日本苧麻興業意見』という単行本を発刊する。

 沖縄県の苧麻栽培状態(42、43頁)

 沖縄島民は苧麻栽培に対しては特殊の技能熟練性を有し最良の繊維を生産して之を上布原料に供しつつあり而して其頗(すこぶ)る奇に堪へざる一習慣として特記すべき点は沖縄国頭地方及び北谷、読谷山の両間切にして其栽培法は他の諸島国と一種趣きを異にし普通一般に苧麻は多く山畑地に種植せる農作物なれども該地方に於いては海岸接近地等の空広たる平野畑地内に栽培し硬質の赤埴土に多量の肥料(良好堆肥)を使用し全く肥料の力に依りて最良繊美の繊維を生産せしめつつあり且其整地耕耘手入に精細なる意匠を凝らし一種の専門的栽培法行はれ居れり而して此他の地方に於ては点々少量づつ栽培するに過ぎす。

 同県下宮古、八重山の両群島は前述の如く彼の有名なる先島上布の生産地たるに関わらず、其原料たる苧麻繊維は全部右北谷、読谷山地方に仰ぎつつあり故に該繊維は非常なる貴重品として取り扱はれ其価格亦我が内地等の数倍以上なり 而して紺上布は宮古島の特産とし、白地紺飛白及赤錆色縞は八重山島の主産物と為せり 

 宮古島は台湾の澎湖群島に類似せる平坦の珊瑚礁より成立つものにして人口顆多既己に耕地面積に剰余なしと雖(いえど)も 八重山群島は面積広大にして人煙稀疎顆多の草原林藪不毛地を余まし加ふるに土壌沃饒にして嘗(かつ)て苧麻を栽培せし形跡に就て調査するに茎の長殆ど一間以上に舒暢し台湾生蕃地以上の好収穫ある部分多し故に向後同島に之が栽培奨励を施行するときは同島の一大主産物と為るべきは無論にして亦一方には其名産たる先島上布機業の発達上著大の救益を呈するならん

■台湾総督府内南洋協会台湾支部から大正十一年(1922)に発刊された名著『苧麻』は加藤清之助による。本書にも日本国内、台湾等の当時の苧麻生産量(統計)が集録されている。 →加藤清之助

 また「福島県の苧麻産地は大沼及び南会津の二郡にて、前者は五十数町歩、後者は三町歩内外に止まる。而して大沼郡の苧園を有せるは野尻と大芦の二村なるが大芦の産を最良とせり」(四十二頁)。

 沖縄県については田代安定の前述書を引用している。

 産地構造として越後上布生産地と野尻組(大芦村、野尻村等を含む現在の昭和村)は会津藩に属し、時に野尻組は幕府直轄領の南山御蔵入であった。野尻組等で栽培製繊された原麻(苧麻)は越後に移送され、越後上布となる。加えてアサが大量に栽培されて、原麻を売った後に蚊帳地の布を織ってそれを売っている。

■沖縄県立芸術大学附属研究所紀要『沖縄芸術の科学22号』(2010年3月)に本多摂子さんが「宮古上布の生産量と苧麻生産地の変遷について 琉球処分以降から第2次世界大戦前までの琉球新報記事と沖縄県統計書を中心に」を発表している。PDFファイル(26枚)で読める。→PDF

 この論文に、沖縄本島北部の今帰仁間切では、明治3年頃より那覇で苧麻原料が高値で取引されることに影響を受けて栽培するようになった、という新聞記事から、今帰仁間切では琉球王府時代から苧麻の栽培、苧麻布の生産が盛んであったわけではなく、琉球藩の設置される明治5年と同時期から栽培されていたと考えられる、としている。

 また今帰仁間切などの国頭郡での苧麻栽培は、当初から原料のみの取引を目的とした換金工芸農作物で、布は生産していなかったといえる、としている。

 大正6年8月11日の新聞記事では、「宮古にては苧麻栽培の目的を以って国頭郡より其苗を叺(かます)12俵移送せる由」

 大正7年4月14日の記事では「元沖縄県工業技師 児玉親徳 琉球織物の改良」で「宮古上布の特色は染色の堅牢なると麻の品質が優秀なると絣(かすり)技術の精巧なるにあり 染色は宮古特有の蓼藍(たであい)と泥藍とを混用し琉球絣よりも堅牢なりと称せられ 国頭苧麻は台湾種に比して手触柔らかくして反布としての織味よし」(81頁)

 また、昭和5年7月2日の新聞記事では「宮古織物組合が苧麻栽培のため、苗の交付を申請」(82頁)があり、宮古島での苧麻栽培が本格化するのは昭和7年以降である、としている。

 2009年現在、宮古上布の苧麻糸は宮古島内で栽培され、苧績みされた苧麻糸が使用されている(69頁)。

■東北南部、新潟の近世での苧麻生産は、会津(野尻組)や米沢等の大量の苧麻が越後に運ばれ糸、布が織られた。しかし越後でも地苧といって自家生産の苧麻畑が近年まで存在した(渡辺三省『越後縮布の歴史と技術』小宮山出版1971年)。

 奥会津の野尻組(昭和村)では、アサを栽培しそれを糸にして布を織った。苧麻(カラムシ、青麻、青苧)は、原料のみの取引(販売)を目的とした生産であった(少量、自家用に苧麻を使用することはある)。

 会津地方におけるアサ取引の中心地は、中世から近世、明治期まで南会津郡伊南村(南会津町)で、野尻組西隣村である。伊南村に集められたアサ原麻・糸・布は、関東地方・江戸・名古屋・近江・京都・大阪を販路としている。

 一方、青苧(カラムシ)生産の拠点は野尻組大芦村であった。これは販路を越後としている。

 近世は国内各地でアサが栽培されている。アサは2毛作が可能で、アサ収穫後の畑に菜大根を播種している。一方、苧麻は宿根草のため園地(圃場)を5~10年占有する。苧麻を大量に作れば、カノ(焼畑)に雑穀類を栽培しても、菜大根を作る畑が無くなってしまう。そのため野尻組では、苧麻とアサの異なる繊維2種による輪作体系を近世に発明し、永続性と越冬野菜の獲得と農地の高度利用を実践した。鞘皮繊維の製繊、糸作り、織りの道具・技術はアサを基層としており、その上に苧麻が乗っているのが特徴である。それら総じた技術は、長く培われた自然採取植物や農業知見により包摂される。

 たとえば苧麻が過年栽培で根詰まり、ウセクチ(パッチ状に苧麻が園地内に生えない)が立つと、そこにアサを蒔いた。また苧麻根株を掘り上げ、その後数年アサを栽培し土地を元に戻しまた苧麻根を植え付けている。

 これはマメ(大豆)を畑に蒔き、その種子や発芽した芽をハトなど鳥類等に食べられてしまったときには、この空隙にジュウネン(荏胡麻)を植えた、という技術に共通する。異種補植の技術は、生育スピードの似た植物を植え、それにより無駄な枝を出させない、あるいは土地の隙間を有効に使う技法である。

■そして苧麻のことで、気になるのは苧麻栽培センターでもある米沢藩主の上杉茂憲が県令として明治期に沖縄県に赴任していることである。→ ウィキ上杉茂憲

 

 

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