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2013年4月20日 (土)

戊辰戦争後の大芦村の明治時代

■『昭和村の歴史』(1973年)の第5章、6章の近代は酒井淳氏の執筆であるが、基礎資料は大芦の五十嵐朝良、野尻中向の菊地成彦らが提供した。

一三三頁。山野改正は明治十一年(一八七八)から行われた。(略)共有地などはすべて官地になるにまかせてしまった。それでもしばらくの間は自由に利用していたが、明治十五年(一八八二)からは官地に立入が出来なくなったので、用材、薪炭、萱、刈敷などの利用に困ってきた。これが後に国有林野払い戻しの運動が起こされる原因となるものである。

一三五頁。掛時計は大芦の五十嵐善八が江戸商をしていたので、明治の初めに備えたのが始まりである。一般への普及はおそく、日露戦争直後、大芦地区八〇戸中、時計のある家は三~四戸であったと伝えられている。洋服の着用については、明治初年には区長、戸長の出県には洋服が強制されていたが、明治六年(一八七三)には洋服和服勝手たるべき旨の通達が残っている。
 この地方で(洋服)は、五十嵐伊之重が明治十年代に着用したのがもっとも早いといわれているが、大正時代になっても着る人は珍しく、洋服は役人の着るものと思われていた。

一三六頁。明治十二年(一八七九)に地方三新法が施行され、今までの大区・小区制度は廃止され、町村が復活した。大沼郡も成立し、高田村に郡役所が設置された。
 明治十六年(一八八三)には郡の下に十か所の戸長役場が定められ、下中津川の正法寺が戸長役場にあてられ、九か村(現在の昭和村)の事務を執った。 

一三七頁。大芦の村人たちは、地租改正の折、共有地をうやむやのうちに官有地にされ、明治十五年(一八八二)以後、一切官地に出入りを禁じられたので、国有林野の払い下げの請願をしていた。この時、県令三島通庸は村民代表に「お前たちは、わが山をあやまって官地にした。道路に反対しなければ山を元にしてやる」と言ったと伝えられ、三方道路反対から高まっていく自由民権運動を未然に抑えようとする策動がみられる。(略)
 国有林野引き戻し運動は、南会津郡田島村外九十九か村(明治十五年)が早かった。大芦では住民が金を拠出して代表を数回上京させて陳情したが成功しなかった。その後、五十嵐善八が委員長、五十嵐伊之重が副委員長となって運動を展開、とくに伊之重の努力によって明治十六年(一八八三)三七筆、五二六町九反四畝二四歩を引き戻し、民有地にした。これは当時、(福島)県内の引き戻し面積としては大規模にはいるものである。さらにその後、明治二十四年(一八九一)大芦では五十嵐長八を惣代として、三二〇二町歩の官林及び官有山林の引き戻しを請願している。
 この時期に会津はおよそ八万町歩の大反別を引き戻すことができたが、それは自由民権運動の激化で、人心慰撫の必要からとも考えられ「会津地方五郡は大体既に官有地に引き戻したれば官有秣(まぐさ)場は少数なり」との報告もある。

一四〇頁。市町村制が明治二十二年(一八八九)に施行されると旧野尻組(昭和村)九か村は野尻村(小中津川、下中津川、野尻、松山)と大芦村(大芦、両原、喰丸、佐倉、小野川)の二つの村にまとまり、自治体として独立出発した。

 大芦村は、初代村長は五十嵐伊之重で、彼は、役場は喰丸に、学校は戸数の多い大芦に本校を置く方針をたてた。したがって役場は喰丸に設けられたが、延命寺、斎藤仲三宅、山内久一宅、渡部虎二宅、山内久雄宅と集落内を村長の交替とともに移動していた。時には座敷の前に玄関を増築して使用したこともある。当時は役場の行政事務も少なく、村長のほか一~二名の吏員で処理していることが多かった。

一四二頁。明治二十八年(一八九五)九月、大沼郡全体組合管理者大沼郡長桐原彦吉は総員二〇名を召集し、第一号議案として土木費中に道路改修費連年支出予算案を提出した。これによると二十九、三十、三十一年の三か年にわたって村費と地方税補助請求によって、里道一等博士街道、美女峠街道、氷玉街道、沼沢街道の四線道路を改修し、これによって大沼郡の山間部の交通を開き産業を発達させようとするものであった。

 この事業に対しては、当時大芦村長であった五十嵐伊之重が郡内の各村長と図り、大沼郡長に四線道路改修の決意をさせるなど、相当の努力を払ったと伝えられている。

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■昭和村大芦・小矢ノ原 頌徳碑

頌徳碑

参議院議員 松平勇雄先生篆額
五十嵐伊之重君之碑
君姓五十嵐諱伊之重考又右ヱ門以安政四年七月生大芦之郷幼而有気
概自七歳就五十嵐長平治修学孜々勉励明治戊辰之役東西両軍戦大芦
当時十二歳也為会兵應援奮闘仝十七年拝命福島縣警察官勤務福島及
二本松仝十九年辞官帰郷就任下中津川外八箇村戸長役場用係仝廿二
年有憲法発布施行町村制以大芦外四箇村為大芦村役場置喰丸仝年七
月選初代村長就任爾来三期十二年間能理村政功業顕著重児童教育開
築小学校啓発地方起治山治水工事及開墾事業改修道路特開修自尾岐
村界経博士山至冨田村境道路編入縣道等功績挙不可数其偉材者於大
沼郡町村会長等最尊重■也惜哉天不借壽明治三十四年病瞑享年四十
有五歳茲頌其徳永伝行為後進鑑矣銘曰

松閲歳寒 壽年更永  人励善行 名声遙騁
能治村中 心行清広  厥徳其功 仰長秀嶺

昭和丗三戊戌年五月   正法泰邦謹撰文

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野尻組の会津戊辰戦争」カテゴリの記事

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