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2014年3月29日 (土)

1674(延宝3)年「青苧造様之覚」、指南した谷屋又右衛門とは?

■2014年3月29日(土)

 
 晴れ。
 
 午前、昭和村。
 
 3月は会津若松市内の会津稽古堂の2階にある会津図書館に通って、調べ物を続けています。
 今日の午後、ようやく、ひとつの方向性が出てきました。
 
■昨年11月2日に、昭和村公民館で開催されたからむし織りのシンポジウムで紹介した南会津町『伊南村史 第三巻資料編二(近世)』(2003年、南会津郡伊南村)の610ページに掲載されている資料316
 
「青苧造様の覚え 延宝二年八月」(1674年)
 
 この資料は『只見町史』では延享二年(1745年)としていますが、福島市の福島県歴史資料館(旧・南郷村界 斎藤兵平家文書)で、原本を確認したところ延宝二年です。 
 
 
■文書の最後に、
 
「河原田 谷屋又右衛門方より指南 泉田久太郎殿、梁取助右衛門 書付被遣候写如此」
 
 とあり、「其外 委ク 口上ニて承候 以上」(そのほか、くわしく 口上(こうじょう)にてうけたまわる)ともあるため、この書に書かれた以外についても、旧南郷村の和泉田村の久太郎と、只見町の梁取の助右衛門が、谷屋又右衛門の指南を受けたことが推察されます。その目的は、青苧(からむし)の植え付け場所の選定から、畑の作り方、繊維にする課程、ソヒカワ(青苧引きかす)が打ち綿となることなど、青苧をめぐる多様なことを教わっています。
 
 
■福島県喜多方市山都町三津合に河原田という地名があります。堰沢、千咲原など関連しています。阿賀川と只見川の合流地点です。ここに暮らした谷野又右衛門が、「谷屋又右衛門」であると確信しました。
 会津図書館にある資料を読みました。いずれ根拠を含め検証が必要ですが、とりあえず知り得たことを紹介してみます。青苧(からむし)が出ています。
 
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 会津若松市桂林寺町88の医師・友田康雄さんが『会津史談会誌 第38号』(昭和37年、1962年)に、「会津のかくれキリシタン 家老 谷野又右衛門と賢君保科正之公の寛容」として書いています(78ページ)。
 1.谷野家の先祖
 
 谷野家の祖・大田小太夫実次は、伊勢の蒲生稲垣摂津守の家臣であったが、故あって浪々の身となり、京都四条室町に居住していたが東福門院の家老となった。俳人であり且つキリスト教信者であった。
 
 その後、信州高遠の藩主 保科正之(ほしな・まさゆき)公(三万石)の附家老となった。
 
 次いで、寛永十三年(1636)、保科正之公が山形の最上城主(二十万石)となるに及び同じく家老となって従い、同二十年(1643)会津城主(二十三万石)として入城したときも、また家老として会津に従った。
 
 彼(大田小太夫実次)は当時禁制のキリスト教信者であったから、保科正之公は之を谷野又右衛門と改姓させ、(会津若松の)城北の荒久田の地、六町四方を与えて帰農せしめた。
 
 これ全く宗教の自由を考えた保科正之公の寛大な所置であったではないだろうか。現に上荒久田の地には 天子神社 が祀られてあり、この神社の東南、三四町のたんぼの辺に青苧(あおそ。からむし)の生じている処がある。谷野家のキリスト教信仰と何等かのつながりをもつものではないかと思われるのである。
 
 次いで、保科正之公は、徳川幕府の隠密の(キリシタン)調査をはばかり、又右衛門を城下に近き荒久田より北方数里距った耶麻郡小布施ヶ原二ノ坂新田にうつして開拓に従事せしめた。
 しかしこの処は農耕には不適地にあったため、さらに寛文十二年(1672)、千咲原の地八町四方を与えて開拓に従事せしめたのである。
 
 同家に伝わる古文書によれば家族は城下馬場二ノ町に住んでいたが、千咲原開拓には一族全員移住したようである。(※一族四十二名、小島一夫『会津人物事典文人編』1990による)
 このところに移っても又右衛門はキリスト信仰を捨てず、仏壇の一部にマリヤ観音を安置し仕掛けによって糸を引けば本尊転じてマリヤ像あらわれ礼拝することができるようにしていたということである。今の仏壇は新しく作られ、そのような装置はみられない。
 
 菩提寺は二回も火災にかかり、過去帳はなく、また谷野記録を預かった長井の佐藤家もまた長井火災に類焼した。谷野家記録は運び出されたという話もあるが、紛失したか焼失したかはいまなお判明しない。ただ谷野家当主又一誌が父祖から伝えられた事柄をかきとめられた谷野家沿革によって知るより外はない。
 
 墓所は千咲原の中央部松林に囲まれたかなり広い域で代々の先祖は其所に静かにねむっておられる。かつて会津史談会の有志とともに、そぼ降る小雨のなか、案内されていったが、いっそうわびしく静かな感がいまも印象に残っている。
 
 初代の墓は、死亡年月日が不明で戒名「心誉松林浄居士」としるされている。婦人谷野かし女史の墓石がなく、ただ、かしの大樹が成育しているばかりである。(中略)
 
 谷野家がキリシタン信者でありありながら千咲原八町四方を与えられ、松平家祖土津神社に奉仕(毎年、石碑の被覆に、あおそ(青苧・からむし)を献納していた)して明治維新の時まで続いていたということも、保科正之公の寛大な心の一面を知ることができる。(以下略)
 昭和三十五年十一月十五日 稿 と記されています。
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『会津史談会誌 38号』には、鈴木茂雄「山都町堰沢谷野家に伝わる俳諧の巻物について」も掲載されています(86ページ)。
 谷野又右衛門(大田実次)は、京都の貞室(俳諧、松永貞徳一門の二世)に書を送り交友を続けた。
 谷野家に伝わる俳諧の1巻は、又右衛門自作の俳諧を貞室に送り添削を請い貞室が添評の後、送り返したもので、そのときは万治三年(1660)と推定されるものである。それは貞徳七年忌にあたる年であるからである。(略) 
 
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『会津史談会誌 第44号』(昭和四十四年、1969年)には春日部規「新編会津俳諧史(五)」があり、谷野実次と其俳句がある。
 実次は本名を大田小太夫実次といい、勢州鳥羽の藩士であったが、京都に上り、宮町に住した東福門院(保科正之公の姉君)につかえ、其偉才を正之公に認められ信州高遠藩の家老職にされた。さらに寛永十一年正之公に従い、山形に移り、さらに寛永二十年会津に移った。(略)このように高遠藩以来の重職であったが、固いキリシタンの宗徒でもあった。
 このような強い固い異教徒ではあったが、公の信任から遂に何の沙汰もなかった。しかし実次は後職を辞して名も谷野又右衛門と改めて、公から賜った千咲原八町四面の土地をひらき、一族と共に幹蒸(からむし)の栽培をして余生を送った。実次が俳諧に入ったのはそのころのことである。万治三年貞室のもとに、、、、、(略)
 
 
 
 
 
 
■谷野又右衛門は、山形最上では保科家中の上層部藩士であり、会津に来てからは帰農しているといっても、新地開墾事業等で、藩主等との関わりを持っていたであろうことは推察できる。また保科正之死去後も、幕末まで墓地である土津神社の供養のために青苧(からむし)を献納し続ける、という谷野家の恩もうかがえます。
 
 会津保科家中が、会津地域に青苧栽培を勧めるなかで、もと藩士の谷野又右衛門も作付をして、栽培技法の確立、、、、言ってみれば、「青苧栽培指南所」的な役割を持っていたのではないか?

 これは山形最上からの技術のほかに、河原田(現在の喜多方市山都町)が会津と越後との交易地点であることから、米沢も含め、様々な技術的系譜が谷野家には集まり、醸成されていったのではないか?と思います。

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伊南村史 青苧造様之覚 具体的な内容です。
 
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すなを→たぶん「綱苧」(つなそ)にする、カラッパギ。からむし外皮を挽かずに乾燥させる。
前作にはアサを作る、ということも書かれている。
 
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