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2014年5月 4日 (日)

会津青苧への道(5)奥会津のアサの商品規格

会津青苧への道(5)奥会津のアサの商品規格

 繊維植物の栽培の基層にはアサ(大麻、一年草)の栽培が古くから各地で行われています。しかし戦後に法制化により栽培が難しくなり、現在は、消滅しつつあります。
 このアサの繊維の規格は、そのまま伸びた長さを大切にし、畑で育った長さを基準として選別して呼称が付けられ商品として出荷されていました。
 聞き取りによる民俗誌から戦前戦後すぐ頃までの様子を紹介し、近世になってすぐの貞享二年(1680)の会津各地の村々の三百年前のアサ栽培を見てみます。
 長いままの繊維での生産が基本にあります。そのなかで会津青苧(からむし 宿根草)が確立される近世中期は畑で育った長さではなく、「品質により切り揃えた規格」を室内で陰干し(影苧)を目標にし「縮布」の原料として高品質化・高単価化に収斂していきます。しかし一方で会津地域に青苧根を提供した羽州最上(山形県)は長い繊維のままでの生産(長苧)と天日干しが続きます。
 

 奥会津、特に昭和村域ではアサの栽培を基本とし、そのうえでからむし(青苧)を栽培生産しました。製繊のための道具は共通しています。畑はアサとからむしの輪作体系を編み出し、そのことがからむし生産の永続性を支えました。売り残したアサ(うみそ)を利用し冬に糸と布に加工し、アサの原麻と青苧はすべてを販売しました。アサと青苧(越後行き)の販売先は異なりました。
 

 アサの生産と製繊技法を良く調べていくことが、その地域での繊維植物や越冬野菜の確保と密接に連関しています。しかしほとんどの民俗誌、町村史にアサの調査項目は無く、養蚕のみとなっています。アサの商品規格、乾燥させたアサである柄麻(これは繊維+麻殻のセット販売といえる。麻殻にも価値がある)、製繊した原麻(麻苧)、糸、布での販売があります。畑での収穫時の選別規格と、剥ぎ、挽きの詳細が記述されていません。これはからむし(青苧)生産でも同じです。




1.会津・南郷村のアサ
 
 現在の南会津町の界に開館した南郷歴史民俗館は「奥会津の麻織り用具と麻製品二五〇点」が1980年3月に福島県重要有形民俗文化財の指定を受け、それを収蔵する場所です。記念して発刊された『南郷村の文化財(7)南郷村史資料21』(南会津郡南郷村教育委員会、1981年)により奥会津のアサ栽培を見てみます。執筆者は安藤紫香(正教)先生です。
 南郷村のある伊南川流域は、近世の奥会津の伊北(いほう)布の麻の産地です。

 播種して九〇日から百日で晴天の日に収穫する。収穫は麻引きといって、二メートルくらいに成長した麻の葉の方を七、八本ほどつかんで、一気にがくんと引っ張ると、根ごと引きぬける。
 麻の根元をそろえて押切りで切り、次に葉の方をそろえて鎌で葉先を切り落とす。根元と葉先を切った麻は、長い良い麻と、短い粗麻とにわけて並べて一束づつに束ねる。

 束ねた麻はなるべく天日に干しやすい家の近くに運び、柵などを結ってたてかけて乾かす。乾燥法は幾通りもあって、昔は川原に乾燥小屋があり、麻(を)ゆで釜があって、刈り取った麻をすぐゆで釜で湯通しをして干しあげた。
 湯通しも麻を白く仕上げるために、先に天日に乾燥させて後に麻ゆで釜で湯通しして、再び干しあげる方法もある。またトクという麻(を)むし舟に麻を浸けて、柄杓(ひしゃく)で湯をかけて湯通しする方法もある。麻を白くする方法がうまくなったのかどうかは不明であるが、明治時代まで続けられてきた麻ゆで釜による湯通しの方法は、大正四、五年ころで止めてしまった。

 麻干しは朝夕小屋に出入れしたり、麻を反転させたり手間のかかるもので、乾燥させるのに晴天で一週間はかかる。乾かした麻は一旦しまっておいて、九月下旬ころ取り出し麻浸け田に三、四晩浸す。麻浸け田は、水稲の苗を育てた跡の田を用いるのが普通で、その田には稲を植えずにおく。池も利用する。浸した麻は引きあげて皮を剥ぎ、剥いだ麻は再び一晩水に浸けて置き、翌日麻ひき舟の上に麻ひき台を載せ、麻ひき金具で引いて、クソ皮を除く。これをウミソという。

 ゾウソという方法は、麻浸け田に同じように浸した麻を引きあげて、畑に溝を掘り萱(かや)を敷き(みょうがの葉と茎がよいという)、麻をねせてむしろで覆い、一晩ねせて置き、翌日皮を剥ぎ、剥いだ後の麻の処理方法はウミソを同じである。
 引いた麻は陰干しにして仕上げる。
 麻はこのようにしてでき上がる。後は苧紡(をう)みから、機織(はたおり)の行程をへて布になる。



2.会津・金山町のアサ
 
 1985年に福島県大沼郡金山町が発刊した『金山の民俗』。加藤文弥金山町文化財調査委員長による執筆(坂内宗平、滝沢三雄、星賢正の執筆協力)。
 
(1)麻切り
 江戸時代の中期から当地最大の換金作物は大麻(繊維)であり、当地では一般に「お」といっていた。麻は重要な換金作物ではあり、肥沃な土地でないと良好な繊維が出来ないので、各集落とも麻畑に適する所は小区画して毎戸に配分するよう留意していたようである。  (略)
 
(2)八月中旬になると収穫することが出来る。これを「麻(お)切り」といった。収穫するには根元からウラの方をつかんで引き抜くのであるが、一枚の麻畑でも麻の長さは長短さまざまである。そこでまず、特別に伸びた太い麻をかかえるようにして、何本かを引き寄せて抜き取る。これをウワソ(上麻)というが、ザッソ(雑麻)ともいい、繊維が粗く麻織物としては不適当なので、かご編みの材料や下駄の鼻緒など自家用にあてていた。雑麻は丈が高いようでも寸法がまちまちであるから、元の方を揃え畑に互い違いに三角形に積み重ねておく。
 こうして一畝(ひとうね)分の雑麻を抜きとると、その畝に残っていた麻は寸法が等しく、上等良質の繊維がとれる。これがナカソ(中麻)であり、中麻を抜いてもさらに丈がやや短い麻が残っている。これをシタナミというが、中麻と下なみを「ウミソ」といい、麻織物用の繊維として販売されるものである。このウミソは寸法がほぼ一定しているので、引き抜いたらウワソとは逆にウラの方を切って三角形に積み重ねる。それでもなお最後に一番短い麻が残るが、これをシタクサといい、麻を束ねたりいろいろの雑用にするだけで、繊維製造の材料とはならないものである。

 本書が会津のアサの栽培・生産についての技法がいちばん詳しい。
 戦後、麻薬取締法が公布され、栽培が許可制になったので、いまではほとんど栽培されていない。


3.只見町のアサ
 

 1993年に発刊された『只見町史 第3巻 民俗編』の227ページが「アサを作る」で、石川純一郎常磐学園大学短期大学教授の執筆です。

 麻蒔き時には、「オマキザクラ(苧まき桜)」が咲く。(略)
 薄まきにすると幹が太って枝が張るので、繊維が不良品になる。一畝につき七合ないし八合の種を片手に少しずつ持ち、指をひねるようにして一振り一振り先へとまいて行く。まいたあと、クワでもって一センチほど土をかけてやる。なお、小林(只見町の集落名)では、前年の虫供養のときに製したソバキリをからからに乾かしておいて、種まきの際に手で押しもんでこなし、種に混ぜてまいて虫除けの呪(まじな)いとする。またアサ作りの盛んな坂田では、種まきの後、「オマキ(苧まき)休み」と称して休みをとり、馳走して祝った。

 五月中旬にまいたアサが、五月末から六月初めにかけて十センチほどに生長する。アサとともに雑草が生えるので、朝食前にばあさんなどがていねいに草取りをする。草取りをしたあと、先に小型の金属クワをつけたカッツァ棒でもって畝間を引き、ツチクルメ(培土)をする。これおをオクルメ(苧培土)ともいい、カッツァ棒の先で畝間の土をかいてアサの根元に土を寄せてやるのである。こうして草取りをかねてツチクルメを二度ほどする。

 八月下旬から九月初めにあっけてアサヒキ(麻引き)の時期がやってくる。生長の度合に応じて二、三段階に分けて引き抜く。最も長いのが二メートル前後、次は一・二メートルないし一・五メートルほどである。密生したアサを両腕でかき寄せ、その中から長いのを両手でつかんで二、三歩さがりながら、右、左、中と引っ張って抜き取り、地面に×字形に横たえていく。抜き取ったあと、アサの末(うら)まで五本の指を通して仕分けてからカマの刃をやや斜(はす)にして枝葉を切り払う。また、カマまたはオシギリでもって根を切り落とす。この一連の作業工程をその都度する場合と、二段階に分けてする場合がある。このあとアサの天日(てんぴ)乾燥に入る。こて以降、加工の段階に移る。

 なお参考まで237ページには、焼畑経営集落における輪作形態(大正年間~昭和初期)の表が掲載されています。
 昭和村大芦のソバガノでは、初年にソバ、2年目にアワ・マメ・アズキ、3年目はアワ・マメ・アズキ・ジューネン・ジャガイモ、4年目にアサ・カラムシとしています。



4.会津高田町松坂地区(谷ヶ地)のアサと柄麻(カラアサ)
 

 現在、会津美里町となりましたが、博士峠の入り口のダム湖底にある集落が谷ヶ地(やかぢ)です。ここでは畑から引き抜いた麻幹を乾燥して「柄麻(からあさ)」としてそのまま販売していたところです。繊維にしての販売ではないところは、南会津郡下郷町でも見られます(後述)。会津高田では市で柄麻の販売が行われ、購入者により繊維取り出し(剥ぎ、挽き)が行われます。繊維を剥いで、残った茎(麻殻 あさがら、おがら)は乾燥させ付け木や屋根材、年中行事(神事、盆)などにも使用されました。
 1985年に発刊された『新宮川(しんみやかわ)ダム水没地区 松坂(谷ヶ地)民俗調査報告書』(会津高田町)は、馬場篤松坂地区民俗調査委員長によりまとめられました。聞き取り調査は1982年2月から二カ年にわたり行われました。1983年9月10日に離村式が行われました。()は筆者注です。
 
麻作り
 麻を栽培するオバタケは春にうなって平にしたところに、フリツケと称し人糞尿を一面に散布する。乾いてから再耕起して平にならす。
 オバタケの大きさを表すのに播く種子の量で表す。播種量は一畝に一升が標準である。たいていの家では、二斗まき畑、すなわち約二反歩くらい作付けした。なかには五反歩も作っている者もあった。
 種子まきは八十八夜の後、五月中旬である。畑の表面にカッサ棒で、四、五寸(12~15cm)間隔に筋をつけ種子をおろし、足で土をかけるか、または鍬で平にならすようにして覆土する。畑の周囲の草取りをするだけで畑の中には立ち入らない。

 七月下旬には2mにも伸びるので収穫する。夏の土用を収穫期とする。麻の収穫をオヒキ(苧引)という。
 オバタケが傾斜地である場合は傾斜の上部から引きはじめる。麻の茎を四、五本持ち根から引き抜き、根部を揃えておく。畑の一方から引き抜きながら畑の内部に入る。畑の周辺にある麻は巾二尺(60cm)ほど残しておく。残したのは種子用である。

 根と茎先を切り捨てて、大きさ、伸びによって三段階に選別する。大量収穫した場合はその日の収穫物整理をヨワリ(夜なべ)にする。
 選別はホンソ、ナカソ、ネキラズとする。ホンソ、ナカソが販売用で、根キラズは藁(わら)代用で自家用とする(谷ヶ地はイネを栽培していない)。
  収穫した麻は家の前の広場や河原に拡げて乾かす。河原の礫上に拡げると乾きが早い。附着している葉は乾燥したとき打ちつけて落とす。朝に拡げ夕に取り入れる。雷雨がくる時は老幼共に忙しい。
 こうして旧盆前に干し終わる。干し上がった麻は三尺縄で結束し、五貫目一束とする。(会津)高田から買いに来るので、売却し馬につけて運ばれた。

 麻畑の周囲に残した種子とり用のものは、雌木だけ結実するので九月になってから茎先だけ刈り取って、束にして軒端に下げ乾燥する。種子はマトリと称する枝分かれした木の枝で作った木槌で打ち落とし、箕で吹いて雑物を除いて貯蔵する。
 栽培者はアサから麻薬がとれることは知らなかった。栽培について何等の規制もなかった。麻種子は小鳥の餌として需要があった。当地では「オタネ(麻種)を炒って食べると笑い上戸になる」と言い伝えがある。戦後麻栽培には許可が必要となり、麻糸に代わる興業生産物が出まわったので麻栽培は見られなくなった。

 麻収穫跡の畑にはオタバケナ(菜)を播く。二百十日前に播かないと大きくならない。平らな収穫跡地に二尺(60cm)に、せびって畦を作り播く。秋に収穫して縄で編んで干葉として、カテ飯用とする。オバタケ菜は柔らかく味もよいので、調理しても美味なので、進物用としても喜ばれた。




5.昭和村のアサ 
 
 
 2011年に『昭和村の歴史2 昭和村のあゆみ ~昭和から平成へ』(昭和村)が発刊されました。この本には各集落ごとの人々の聞き書きがまとめられています。川合正裕さんによるすぐれた聞き取り調査です。

(1)昭和村大字小野川字大岐の事例 239ページ
 麻の畑から麻切りといって挽きぬいて切る作業があった。まず乾かす前に、ウミソ(績み麻、糸にするもの)になるそうなものは別に切っておく。麻(お)切りの時も別に重ねて積んでおいた。悪いものはゾウソ(雑麻)といって、これは売ったり欲しい人に分けたりした。
 雨や雨上がりの日はあまりやらない。自分たちの背よりも大きいので、引っ張ってつかみ、麻がら(幹のこと)が青いものを二十本くらい一気に引き抜いて来て、土のところを膝のところでパタパタとはたき、トントンとモトを揃え、根っこと麻になる部分のところを切る。
 葉っぱがついて、実(み、硬化)になっているなというところまで何本もトントンと束に揃え板の上で押し切りで切る(鎌で葉っぱとウラッペ(先)のところを落としたものをためて、紐で結わえ、繊維になる部分がわかれば押し切りで切る)。

 からむしの畑みたいに一枚の畑をすべて揃えるわけではない。からむしのように尺棒でジョッキリと切るわけでもない。何束かたまると、縦横と交互に積んでいった。
 オヤソ(親麻)とシタソ(下麻、下並ともいう)に麻切りの際にわけておく。大きく生長したものをオヤソ、途中で日陰になりあまり育たなかったものをシタソといった。シタソは柔らかかった。繊維にしても麻績みまでにはできなかった。縄綯いのように使った。雑麻となったのは主にシタソだった。(略)



6.1685年(貞享二年)の麻栽培
 

(1)庄司吉之助編『会津風土記・風俗帳 巻二 貞享風俗帳』(歴史春秋社、1979年)の「地下風俗覚書 会津郡楢原郷」(現在の南会津郡下郷町)では、

中倉村(250ページ)
麻よく出来申候に付、おもて作に仕候得とも、水悪敷御座候故、から苧にて売申候、金一分に四尺丸五束半、六束も売申候

これは、「麻がよく出来るので作っているが水不足のために浸け場を設けたりして繊維にはせずに「から苧(柄麻)」で売っている」そして「おもて作」(主産業)であるとしています。四尺丸が一束の規格であることがわかります。

(2)「地下萬定書上帳 大沼郡高田組」
 本書には、「先年、服部安休老御改、、、という神社の相殿(寄宮)」という明記がたいへん多く記述されています。さて乾燥した麻幹である「柄麻(からあさ)」の売買について記述があります。

258ページ:郷村鎮守祭礼で、祠無之所は麻柄(あさがら)杉の葉を以 年々新に造り、、、

260ページ:虫送は諸作に虫つきたる年、一郷申合、麻柄(あさがら)杉の葉を以て社壇を造、作物につきたる虫を取、社壇の内へ入、紙にて籏を拵、仕方ハ神送りのことし、、、、

271ページ:早麻は春土用入十五六日めより土用明二三日目迄に蒔、六月土用中に取、其跡は菜大根を取

晩麻は夏至を二三日懸て蒔、八月末に取、其跡に大麦小麦をまく

284ページ:市場江出ル諸品売物
八九月中ハ 真綿少々 柄麻(からあさ) 山はぎ麻 小柱ほけ摺磨

右市場売買物之内、柄麻には手屋りとて金壱分銭拾文買人出し 五文売人出し、是は柄麻置候宿取

在所之家職 農業の間隙に雪不降内、御蔵入金山谷尾岐郷より柄麻を買出シ 苧(を)に拵(こしらえ) 渡世の営 他預之商人来 買出ス、尤(もっとも)御領分之者も六斎の市日 其間にも買出 次自作にも早麻を少々作 苧(を)に拵 渡世の助力に成

※ここでいう苧(を)とはカラムシ(青苧)のことではなく、乾燥したアサの幹から繊維を取り出すこと、取り出したアサの繊維を苧(を)と言っています。アサの繊維を「あさを(麻苧)」ともいいます。残った幹は麻殻(あさがら)。

293ページ:端村仏沢村、麻宜処にて多作、御年貢上納之助に成ル

306ページ:中荒井与(組)
本村端郷共に諸作物之中に麻多作、御年貢上納の助力に成、

(3)会津郡郷村之品々書上ヶ申帳 伊南古町組
 会津地方の麻産地である伊南川流域。その1685年(貞享二年)の様子は麻の生産について詳細に記録しています。

204ページ:麻種子ハ内川六ヶ村にて土用末之比(頃)より蒔申候、浜野村より下モハ土用明キ二、三日目より九日、十日目ノ比迄も段々川下モ程遅ク蒔申候、麻畠ハ壱反に付 やしない五、六拾駄宛入申候故、大分手間掛り申作にて御座候

205ページ:麻畠拵(こしらえ)之間を以(もって)、麻蒔より前に皆うなふぃ仕舞申候、麻を蒔仕廻候ヘハ苧(お)苗代(なわしろ)休(やすみ)と申 一日休ミ畑作に取付申候、

206ページ:麻切干始末之事
夏土用過 十五、六日目之比(頃)より 麻切時に罷成候、
男女共に畠へ罷出(まかりいで)、男ハ切、女ハ善悪をゑりわけ 能(よき)麻をハ其ままにて干し 是を白干シと申候、
悪敷(あしき)麻をハ 麻畠或ハ川原なとにて火を焼あぶり候て後干シ申候、
是を あふりそ(あぶり麻(そ))申候、
朝に干シ、昼ハかへし 夕ハ仕舞、日数六日、七日計(ばかり)宛 干シ大方に干申候へハ 先家之内へ入れ置、又取出シ水にて洗、或ハ湯をかけ二度、三度洗干シ色を白く仕候、是を麻干始末と申候、
麻之跡ヘハ菜を蒔申候而 秋之末に此菜蕪(かぶ)を取、年中之糧(かて)に仕候、
麻切申時分ハ朝未明より出、昼ハ麻を切、日暮れより夜に入迄 菜を蒔申候ゆへ 就中(なかんずく)いそがしき時節にて御座候、
麻切仕舞申候而ハ 大豆を引(引き抜く)、其跡へ麦を蒔、馬ノ飼料葛葉、蓬等を取、稲之ふきかやを苅申候、是ハ にうかやと申候

208ページ:麻付けはぎの事
成程能(よ)ク干色白く成候時 水にひたし四夜、五夜ほと置はぎ候而、
一夜も水にひたし板へのせ、かなごと申物にてひき申候、
是を麻の つけはき と申候

210ページ:麻之そかわを水にひたし打洗なみけと申に拵 表にハ 古かたびらを当テ 横指に仕候、是を 苧(を、麻)のわたともなみ とも申候、

212ページ:ふきかや支度之事
秋中 麻から(麻殻)有之時分他村まても 家々を廻り 麻からを貰、是ハ軒廻をふき申候、



(2014年5月4日、記  菅家博昭)

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