目次(1995年)

博士山に暮らす人々に学ぶ

(狩猟・採集・林業・農業と家族史)

  福島県大沼郡昭和村大岐1723 
 農業 菅 家 博 昭
1995年2月11日執筆より転載

< 目次 >


   猟師の茸採り
   初雪の頃
   青山に雪が降る
   道具と倫理
   生息地放棄の原因は県の無策
   洪水
   猟師の目配り
   ほたら
   猟師の茸採り
   殺生の相手方
   熊を見る
   熊撃ちの意味
   収穫物の公開
   ボウフラ雪の日の勢子初体験
   アカウサギ
   山頂に集まるノウサギ
   イヌワシとノウサギ
   祖父のナデツカレ

   谷ヶ地の知恵
   慶長の会津地震

   カラムシとアサ
   葉タバコの栽培とブナ実ひろい
   宿根カスミソウ
   多種多様な山野草の花をめでる

1 猟師の茸採り

< 猟師の茸採り >

 「カヤバのミズナラのドングリはあっちこっちしかなってねえ。熊がかんむくったあとがあったが、ヒラの下のほうはマミだ。帰りにナメコ、ムキタケ、カンタケ採ってきた。あそこは春行けばエラひとかごは採れんな」

 私の父・清一(一九三二年生)が狩猟に出かけた裏山から帰ってきて、ふだん着に身支度したあと炬燵(こたつ)にあたり、自分で入れた熱い緑茶を飲みながら話し出す。父の居る横座、その差し向かいにいる私の祖母、つまり父の母親のトシ(一九〇八年生)に話しかけている。これは一九九四年十一月十六日のわが家の光景である。山から戻ると、たいがいこうした会話がはじまる。祖母は数十年前のことを引き合いに出して「おれの若い頃は、あそこの萱場(かやば)は、誰彼と行ったときにシメジをひとしぇえ(一背)採った」という具合だ。そこで、過去に利用した資源の中味と量、自生そのもの量が変化していることを家族の中で確認している。たまに、こうしたやりとりの中で祖母から聞いておいたとおりに茸のオイハ(線上に発生する場所)から収穫をしてくると父は「婆様ゆった(言った)とおりだったぞ」と言う。
 これら山菜・茸は、家庭で利用し、一部を町場に住む親戚に贈与している。保存しておけるものは、村の行事や冠婚葬祭時の献立に必ず付けるため、必要なものも多い。

2 初雪の頃

< 初雪の頃 >

 今は、狩猟免許を持っていれば十一月十五日から二月十五日まで狩猟ができる。狩猟解禁になったばかりのため、村の猟師たちは畑仕事そっちのけで山に通っている。今朝は寒く、私たちの暮らす博士山西麓の昭和村大岐の自宅前の水たまりに初氷が張った。十月中旬には初雪が降るのだが、この年は十一月十三日深夜から雪が降りだし一千四百八十二メートルの山頂から標高一千メートルの博士峠の高岩まで雪は降りた。「シガ」と呼ぶ樹冠に付着した氷雪が青空に真っ白く映えているのが大岐からもよく見える。
 千メートルより下に雪が舞ったのは初冠雪から十日後の十一月二十三日のことで、イヌワシの調査で裏山から山頂を観察するために山中にいた、いとこのT君(一九六〇年生)と私の頭にも雪は積もった。標高七一〇メートルの大岐集落のトタン屋根も白くなったが、すぐに雪は消えた。しかし、十二月五日は本格的な雪となり、これが一メートルもの大雪のため根雪となった。

3 青山に雪が降る

< 青山に雪が降る >

 一九八八年は初雪が湿った大雪で十月十四日のことであった。山の木々はまだ葉を落としておらず、重い雪が樹冠を覆った。葉をつけたままであり、多くの雪を樹冠に呼び込んだ木のなかでも、その樹形から重みに耐えられずに枝や幹を折ったものが多くあった。
 博士峠の道路沿いにその被害は集中しており、道路上に樹木が横たわり通行不能となった。はじめから森の周縁にあった樹形であればこのような十年に一度くらいの早い大雪にも耐えられようが、はじめから森の内部に育った樹形の木々は、道路のために空間を開けられ、そうした天候に耐えられる樹形でないため雪の被害が出るのである。当然、森の上に降る雪と、森の中に一本の空間を開けられた場合の雪の吹き込み方にも変化が出るためである。特に高標高地ほど積雪量が多く、顕著である。残存させたブナ林も標高の高いところでは林縁部に繁茂するマント・ソデ群落が林床のチシマザサ群落のため発達せず、北西の季節風を受ける面から立ち枯れを招いている。その被害が顕著に見れるのが王博士(営林署の地名呼称、地元では大博士)北西頂部である。残した森林の奥に立ち枯れが進行している。

4 道具と倫理

< 道具と倫理 >

婆様(祖母)の時代と今では博士山の具合は大きく変わった。その影響を受けたのはブナの森の草本・実・昆虫を食べていた小動物たちである。当然大型獣も住処を追われ生息域が変わる。博士山麓はいまだに国の「拡大造林政策」が国有林で行われていないだけで、大規模林道や広域基幹林道大滝線沿線の民有林で行われている。標高千メートル付近まで、杉だけの広大な造林地が生まれている。
 かつて博士山は山頂から中腹までブナで覆われていた。裾野集落の周囲は二次林でコナラ・ミズナラが多い。博士山の西麓昭和村・北麓柳津側のブナの森の大方が国有林であり、近世に木地挽き(木地屋)が樹木を抜き伐り会津塗りの原料とした。第二次世界大戦前に営林署が官行事業と称し博士峠周辺の樹木伐採を行っているが、乱伐したのは戦後である。
 とりわけチェーンソウを使用しだした一九五〇年代から一九七〇年代までに博士山西山域での伐採は、斜面の立木そのものを次々と消滅させる全面伐採(皆伐)であり、森の破壊のなにものでもなかった。そうしたなか、わずかに尾根や搬出不能地域にブナが残ったのである。
樹木を切り倒す道具は縄文時代では石の斧が一万年ほど使われ、二千年前に鉄の斧が使われだした弥生時代には、その伐採効率が石の斧の約4倍に上がった。一九五〇年代の日本に導入されたチェーンソウ(鎖鋸)は鋸の系譜だが、その効率は比べものにならない。これが樹木一本一本と格闘し伐採する時代は、次の伐採地まで到達する時間にも差を持っていた。
 全山域を極めて短期間でなぎ倒すチェーンソウを使う伐採に変わったことで、伐らなくても良い木を伐り、効率重視でことは進められた。こうした事業を行い、結果として地域に雇用を生みだした半面、流域に洪水等を引き起こす、木が無くなれば雇用は無くなる、植えた杉やカラマツが寒くて育たない、などの結果から手法を見直し、林業に反映させようとしたときには森そのものが消滅していた。 中央政府の伐採方針が変更された時点で森は消えていたのである。
 佐原真氏はその著書「斧の文化史」(東京大学出版会一九九四)で、この斧とチェーンソウの比較を行っているので紹介する。「石の斧→鉄の斧→チェーンソウの効率は一→四→百とすれば、二千年前に石の斧が鉄の斧に変わったとき弥生人は縄文人よりも四倍の効率を手に入れることが出来た。しかし一九五〇年代、日本人は鉄の斧をチェーンソウに持ちかえたことで、実に縄文人の四百倍の効率を獲得したことになる。これこそ文明の発達である」が、「近藤義郎の指摘(一九八五『岡山県歴史文化ブックレット』第2号)のように、チェーンソウによる大規模な森林破壊は、今や地球の環境を脅かしている。本来、人は、すこしでも効率的に、安全に楽をするために、道具・機械・技術を発達させてきたつもりであった。しかし、進みすぎて、人が予想もしない事態(作業者が白鑞病等の振動障害被害を受けることと、自然破壊)をまねいてしまったのである」と指摘している。
 これに私も同感なのだが、問題を国内の国有林の伐採に限定していえば、森林施業計画そのものに誤りがあったことを指摘しておきたい。時代の要請とはいえ、明らかに一九五〇年代から行った拡大造林の「政策」が問題であり、誤りであった。伐る側の倫理、生態系への深い理解の欠如と、山を木材の生産工場に見立て、あるもの全てを収奪しつくした姿は反省されなければならない。これはいわゆるリゾート法成立以後の国有林内へのスキー場等の積極的な誘致にも、拡大造林政策の思想が形を変えたもので、底流に流れるものは変わっていない。
 樹木の成長量を越えない範囲のごく小面積の伐採、つまり鉄の斧で伐れるスピードを越えない程度、環境変化を事業の変更で追随できる形であれば問題は少なく抑えられた。しかし、自動車を工場で生産するように大量生産効率化のためにチェーンソウは使われ、短期間に効率化よく伐採され、将来やってくる時代を見越して樹種が選択されずに、一九五〇年代の要請であったカラマツ・杉だけが一面に植えられた。カラマツが成長した頃は、電柱はコンクリートになり工事現場の足場は鉄製になり、カラマツの出番は無かった。

5 生息地放棄の原因

< 生息地放棄の原因は県の無策 >

また、私たちが福島県の農地林務部とイヌワシやクマタカの保護と林業のかねあいについて認識が異なるのは、福島県は「今までの林業でもイヌワシが居たから、このままの(拡大造林政策を実現する)植林・林道を造る」と主張する。
 イヌワシ=林業共生論を言うのだが、この論理で表現している「今まで」は、気の遠くなる縄文時代から一九五〇年代までの系譜と、一九五〇年代以降のチェーンソウが導入され拡大造林政策を現在まで実施し、将来も継続するという問題の多い系譜を、あたかも同じであるといっている。これは大きな間違いである。
 それは近年のノウサギや猛禽類、ツキノワグマの行動の変化、ならびに個体数の減少を見ても明かであるし、杉桧の針葉樹の人口造林が進んだ西日本でのツキノワグマやイヌワシなどの大型野生生物が激減し、絶滅傾向にあることをもっても、福島県の主張する「今までの林業」とは大きく異なっている。
 結果、博士山に生息するイヌワシもその繁殖率が低下しており、一九九四年は野山の兎を見ることもまれとなり、繁殖期の十月から大滝林道の工事が開始され、繁殖期になってもイヌワシは戻らず、生息地放棄の最悪の状況を福島県は引き起こしている。

 専門家はどうみているか、博士山の調査も担当している農林水産省森林総合研究所東北支所保護部長由井正敏農学博士は一九九四年十一月発行の近著『林業と野生鳥獣との共存に向けて - 森林性鳥獣の生息環境保護管理』で次のように指摘している。「求愛、造巣期の十-十一月のイヌワシの過敏度は七-九月のそれより大きい」加えて「営巣地周辺ないし行動圏内の植生環境が造林、各種開発などで質的に変化することの影響があり、これは巣から半径数キロメートルにも及ぶ範囲で長期的な悪影響を及ぼす」
林道事業の実施と森林計画の見直しをしないとし、工事をやりながら生態調査を行う手法については繰り返し問題であると指摘し続けてきたが、強引な手法はあらためられることはなかった。イヌワシを追い出す結果を引き起こしても、行政のそれは変わらないし、調査結果に基づき保護策を提案する私たちとの協議も不要だという(一九九五年一月三十一日 福島県森林整備課)。

6 洪水

< 洪水 >

 私が小学校四年生の夏休み、一九六九年八月十二日朝からの大水害で滝谷川流域は甚大な被害を受けた。川沿いの大岐は収穫前の水田と葉たばこ畑が流され、住居も床上浸水となった。明らかに、この洪水は国有林の乱伐が原因であった。前後して堤防を越えるまで迫る洪水が幾年も続いた。
 伐採後に植林されたカラマツも、標高八五〇メートル以上の高標高地は生育不良で、手入れもされない。伐採が遅かった一千百メートル付近の斜面は「自然更新」を待つという施業、つまり、伐採したままの状態で放置され、チシマザサが繁茂している。
 東麓の会津高田町域は民有林で福島県林業公社や森林開発公団の杉の単一植林が進んでいるが、標高八〇〇メートルを超えるような場所では雪による根曲がり等が多いため不成績造林地と言われる。千メートルの尾根部まで杉の植林が進んでいる。北麓の大規模林道飯豊-桧枝岐線沿いも、広葉樹をパルプ材として売却し杉の大面積造林地が造られ、本当に大規模な植生の人口転換がはかられている。
西麓の柳津町琵琶首の民有林でも、新たな大面積の福島県林業公社による杉の植林が進む。ここの植林地では、長雨冷害の一九九三年の台風で斜面崩壊と洪水による土砂流出を引き起こした。境の沢集落の北隣の県道上を四メートルほど土砂が覆い、二日間通行止めになった。県道まで土砂が流出したのは、かつてなかったことである。
 福島県林業公社の若い造林地から流出した土砂は取り除かれ、翌年から、防災工事が始まり、砂防ダム建設工事が進行している。今だ止まらない民有林の公社公団による拡大造林や、砂防ダム工事は言ってみれば、「あとは野となれ山となれ」式のやり方で、これが世界に誇るべき現代日本の現状であり、お粗末な経営方式の誇るべきもない現実なのである。


7 猟師の目配り

< 猟師の目配り >

 さて、はじめに地の言葉のままで紹介した父の狩猟や採集の話を解説してみよう。
熊猟に行ったのだが、熊とは出会えず猟は不調に終わったので、帰りに茸(きのこ)を採ってきたというのだ。山の状況は、夏の未曾有の高温干ばつのせいか、ミズナラのドングリの実(シダミともいう)が不作であちこちにしかなっていない。熊の跡がないか、慎重に足跡を探して歩いたようだ。ドングリは熊の好物で、落ちた実を探して、落ち葉を掻いてあった痕があったが、ヒラ(平らに広がる空間を持った斜面)の下の方の痕はマミ(アナグマ)によるのものだった。
 ブナは豊作年と不作年があるが、博士山では長雨冷害の年(一九九三年)は豊作で多くの実をつけたが、今年(一九九四年)は実をつけていないので、熊はミズナラの実であるドングリを探して歩いている。その熊が歩く範囲がいつもより広いようで、父はあてがつかない様子であった。
 熊という獲物を探すために、猟師の父は山の成り物である木の実の状態をよく観察していた。木の実を多くつけた山塊、その斜面の落ち葉を掻き分け、実を食べた状況を良く観察してケモノの種類を識別している。こうした一連の行為のなかで、山菜や茸の出具合も見ている。

8 猟師の茸採り

< ほたら >

 台風などで倒れた木の場所、これは茸が出るので覚えておく。また、茸の出始め、盛り、開ききったもの、腐ったものと、その生育段階のものも覚えておき、来年のいつの時期に来たらその盛りに採れるかも推察する。
 山菜の若芽は伸び葉を広げ「ふうける」と「ほたら」になり、秋には枯れるので、「ほたら」の有無さえ見て歩けばよい。そのところに春来れば若芽を採れる。春に来たときにも昨年の枯れて雪におしつぶされた「ほたら」を見ておく。
 このようなことは猟師、山菜茸を採る人にとってはごく普通の行為である。秋であれば茸を採りながら、山菜であるワラビ・ゼンマイ等春の山菜のほたらも記憶しておく。冬の猟でも枯れた木や倒木を記憶し、数年後の茸の出を予測する、森の木の実の成り具合から鳥獣のその年の生息域と個体の増減まで推し量っている。こうした観察からわかるとおり、その山の物の収量は、年令とか体力によるものではなく、環境認識の深さが最も重要で、単独で山に入り山菜や茸、一部の狩猟、川猟の個人差となる。また、山の中に細かくつけられた地名によってその場所の特定と、情報の公開と共有(家族なり、集落なりの)をはかっている。

< 猟師の茸採り >

 この日は味噌汁の具にするととてもうまい「エラ」がまとまって生育していた場所を見つけ、その量は「篭ひとつ」ほど採れると推察し、来年の春に採ろうというのである。
 今日は、獲物が無いので、せっかく山に入ったのでカラミ(空身)では帰るのは惜しいので、茸を採ってきた父だが、こんどはその採ってきた茸を見てみよう。
ブナの森に出る茸は初秋から「ワケ」が採れる。そして秋はトチ、ナラ、ブナ等の木に「ムキタケ(ヒラタケ)」が出る。同じく「ナメコ」はブナ等何にでも出るがナラの方がでる。ムキタケが終わるころ、ムキタケにとても良く似た「カンタケ」がブナやハナノキ等に出る。カンタケはムキタケの晩生のようだが、格好はワケに似、紫色。「シイタケ」「アカンボウ(クリタケ)」「マイタケ」、種類が多い「シメジ」、雑茸としの「モタシ」。8月の旧盆ころ出る茸の「サンボタケ」は、虫がつかなければ真冬になっても採ることができる。
 人間に重宝な茸は、ブナの森自身の健康維持のためにも無くてはならないもの。ブナの木の枝や幹が折れると、雨水がしみこみ、腐りはじめ茸が出る。ヤマアリなども巣くいはじめる。そのアリを食べるためにオオアカゲラ等のキツツキの仲間が木に穴をあけ虫をつつき出し食べる。やがてブナの木は倒れ、ナメコ等が出て、最後には分解され、土に還る。この滋養豊かな土は、老木のもとで出番を待っていた若木を育てる。

9 殺生の相手方

< 殺生の相手方 >

森の中をくまなく見るのが猟師である。猟師のことを私の村では「テッポウブチ(鉄砲撃ち)」と呼んでいる。博士山西麓で狩猟対象になった主な獣は最近数が激減した野兎(主にトウホクノウサギ)、ヤマドリ、ムジナ(タヌキ)、イタチ、テン、マミ(アナグマ)、熊(ツキノワグマ)、バンドリ(ムササビ)等である。キツネ、カモシカ、ヤマネ、ニホンリス、ニホンザル等も生息する。かつては子どももクマタカの巣から雛を捕り、育てて売ることもしていたようだ。
一人でする猟ではヤマドリ等が多い。マキ狩りでは兎、熊をとる。熊とりは集団で行い、公平に分配し、また集団の維持にも役だっている。
 しかし、近年は村の外、つまり都市からやってきて冬眠中の熊を単独で捕る猟師が入り込み地元の猟師は困惑している。熊は冬眠中に出産する、その熊を殺してしまえば絶滅してしまうからだ。都市から来る猟師は一頭の熊の胆(い)、皮、肉を売り、五十万円から七十万円の銭に換える。したがって、節度など無く、禁猟区でも捕っているのが現状で、所属する猟友会に捕獲頭数の申告をしないと聞く。猟師の団体である大日本猟友会はその絶滅を目前にして、自主的に熊の捕獲自粛、頭数制限を行ってはいるが、都市部の猟師の熊猟の捕獲頭数の制限が鍵であろう。よそから入り込み禁猟区や冬眠中の熊を単独で盗られてしまうことから、地元の猟師もあせり、単独猟や冬眠中の熊猟を銭儲けのために行うべし、そうしないと町場の猟師に捕り尽くされる、という動きもあり、山棲み猟師の規律や倫理、人間関係が崩壊しつつあるのが気がかりだ。

10 熊を見る

< 熊を見る >

今、博士山でワシやタカの観察をしていると、望遠鏡に熊が映ることがある。一九九三年五月三日は、私が居た山中の観察地点の対岸で同時に四頭の熊を見たこともある。春先で一頭はブナの木に登り芽を食べ、その谷の向こうでも一頭が同じく木に登る。この谷の斜面を子連れの熊が南から北に歩いていた。
 こうした場合、有害鳥獣駆除ということで町村県に申告すると猟区でなくとも猟期以外でも殺戮できるため、私は、猟師の父や父の仲間には調査で見た熊のことは話さないように心がけている。当然、誰にも他言しない。そうした情報は伝わるのが早く、あそこのヒラにいたらしいということとなって、捕られてしまうのだ。
 子どものころは、春先に熊が捕れると私の家の小屋がある北側の中道とよぶ畑の雪上で、熊が解体された。村中の人間がしとめられた獲物を取り巻き、猟師が掌におさまる小刀で胸元から皮を剥いだ。血は空鍋かボールに集められ、内臓も丁寧に取り出される。この日は、キハッツアンと呼ばれる爺様がボールに血をもらいにきたが、キンタマ(睾丸と陰茎)もくれろと言ったので猟師は笑って差し出した。
 骨は厚いまな板に乗せ、ナタでブツ斬りに、細かな肉片まで当分に分け、猟に参加した人数分の山をつくり分け、くじ引きでそれを受取、ビニール製の肥料の空き袋に入れて家に帰っていた。解体した後は鮮血が一坪ほど雪を染めていた。父が猟師であったせいか、子供の頃から見慣れた風景で、熊の腹の中味を見るのが興味本位というか最後まで覗いていた。
 私は、ブナの森の熊(ツキノワグマ)が、樹木の若芽や草本類、ミズナラやコナラ、ブナ等の堅果類、アリ、ハチなどの昆虫類を主食とし百キログラムほどの体重を維持していることに驚く。

11 熊撃ちの意味

< 熊撃ちの意味 >

 このような動物に古くから私たちの祖先は向き合い、熊でいえば年に一頭くらいを捕獲し、人間の生活に利用してきた。私は森をくまなく闊歩し地中の昆虫から草や木の実、樹上まで登り芽まで摂取する大型獣である熊を捕獲する意味合いは需要であったと考えている。村中の男が春先の堅雪の山野に入り、冬眠から目覚めた熊の足跡を踏み、ふんぎり、生息場所を特定してから人を組織してマキガリでしとめ、その肉を体内に取り込むことで、その年の春からの人間の再生・気力の復活と集団の確認をはかってきたのだろう。
 つまり、かつては集落の家庭すべてに分配したであろう熊の肉、脂、胆、骨、血は薬として利用する場面が多かった。現在は狩猟に参加した者で均等に分配するが、分配を受けた者は狩猟に参加しない親族に贈与しており、こうしてまんべんなく熊の体が集落の隅々まで配分されている。また、皮は集落外の有力者等(近年は政治家)に贈与し、集落の維持をはかったし、現在は現金に換え分配している。
こうした「熊撃ち(クマブチ)」は、暮らしのための手段であり、利潤のためのビジネスでは無く、消費者の経済にほかならない。したがって、捕獲頭数を抑制し自然の負荷能力のはるか手前で狩猟を停止させていた。それは熊が冬ごもりから出てきた春先に主な狩猟時期を限定し、キブクロ(樹洞、うつろのある木)や木の根元、岩の隙間や土のクマアナ(巣穴)を狙う猟を避けてきたことからもうかがえる。
 近年の単独猟でしとめた熊は、換金の手段であり、分配されずに個人が所有しするため、集団の維持が難しい(ブックレル)事例も多く見聞きしている。
集団で出かける、狩猟免許を持たないものもセコ(勢子)として参加すれば、分け前は鉄砲を持ったものと同じである。
 集落にいる老若や体力の個人差や経験を生かすリーダーシップの在り方、組織統率と合議の仕方は「ヒキ」に集約されていると姫田忠義氏が指摘したとおり(『民映研通信』一九八七仲春の号)、私たちが学ぶべき多くのものを内包している。

12 収穫物の公開

< 収穫物の公開 >

 森林の利用でも奥山は猟ぐらいの利用であり、集落のまわりに畑、水田、草地である萱場(茅場、カヤバ)を同心円状かモザイク入れ子状配置し、その周囲を春木山に利用する燃料の薪や炭を焼くコナラ主体の二次林が取り囲む。それ以外は手を付けないが、森の中から生産される山菜、茸、鳥獣、魚貝類はきまりを定めて利用している。
 家を中心とした場合、労働の手段である大地=田畑が近くに有り、人々の目にはそれがよく見える仕組みとなっている。しかし労働の対象そのものとなる森=自然は少し離れ、人間の森の中での動きは見えない。土地の統制よりも人々の山に入る行動、山での採集の仕方そのものの統制が重要であった。その古い時代から現在も、村人は誰が何処に今いるか、無意識のうちに注視しているのは、そのような意味からだろう。
 たとえば、急病人がでたときなどは、村人はその家族が山菜採りにいっている山を本人に聞かなくとも知っていて山に入り連れてこれる。また、山菜茸木の実は家の前にムシロを敷いて並べ乾燥する場合が多いため、収穫量も公開して明らかにしていることになる。朝の山に入るルートを見かけ、帰りの背負った篭の数、広げたムシロの枚数で量はわかり、急に葬儀が出来て吸物に茸が必要だったり、あえ物に山菜の塩漬けが必要だったりしたときは、この記憶をたよりに、その品物を持っている家から借りてくるのは今でも同じである。または、贈与を受けた場合は必ず対価の品物であとでお返しをする。
山のものは、名前がつき食べられても利用しないものも多い。自然資源の種類をくまなく利用するのは薬としてのときだけで、その量はごく少量である。動物にしても、毛皮が売れる時代にはバンドリやムジナ、テンを捕っていたが、利用するものを利用するだけ捕るのが基本である。また、集団で狩を行うことは狩の効率を上げるためであるが、それは動物数のたくさんいる斜面で行われ、結果としてすべての地区から獣を捕るといったことを防ぎ資源保護に結びついていた。
 さて、イヌワシやクマタカの餌でもある兎の話をこの後に紹介しよう。季節の変化、雪の形状と密接なので、まずは博士山の雪の話から。

13 勢子初体験

< ボウフラ雪の日の勢子初体験 >

 父と二人で猟に出かけたことがある。小学生の時(一九六〇年代後半)だ。裏山から採った細竹を丸く輪にして針金で留め、その中を亀甲状に麻糸の網を架けその上に長靴を留めるようにしてある「カンジキ」は父が作ったものであり、直径で大中小と3種類くらいあり、そのいちばん小さな三十センチメートルくらいのカンジキをあてがわれた。家の雪掘りなどでカンジキはつけていたから、履き方は慣れていたが、一晩で六十センチメートルも降った乾燥した新雪である「ボウフラ雪」は、雪に腰まで浸かるので慣れないとなかなか歩けなかった。黒いゴム長には大岐ではストッキング(スパッツ)と呼び雪が靴の中に入らないようするすねあてを付ける。母が毛糸で編んだもので、兄弟みんな持っていた。
私がなぜ父の誘いを受けて猟についていったのかその動機を今は思い出せない。弟たちも小学生だったがカンジキをつけて雪山は歩けたが、男三人の兄弟の長男の私一人だけが誘われた。父は、家の裏から山の神の石段を登り、この御宮に両手を合わせたあと頭を垂れしゃきっと背筋を伸ばしてから、右の沢に入った。
私は父の歩いたカンジキの輪の後をなぞって歩くだけで精いっぱいで、足元ばかり見ていたが、杉林を抜ける頃には体中に汗をかいていた。その時左側の沢の隙間から一メートルもあろう長い尾羽根を持つヤマドリが羽音を立てて目の前に飛び出したが、父は構えるだけで猟銃の引き金はひかなかった。
 私の呼吸に気遣った父はここで「タチイップク」と、立ったまま小休止となった。「山歩きは、汗をかかないようにゆっくり歩くんだ。昔からそういっている。汗かくと下着がぬれて冷えて寒くなる。歩きだしたらジャンパーを脱ぐ、休むときは体を冷やさないように着る。こまめに上着を脱いだり着たりすんだぞ」と言われた。また歩きだし、ふたかかえもあるブナの樹が立つ森に入った。ここで父から指示された。私一人が右の尾根から谷に降り、そこから大声を出して斜面を横切るように歩き大きな尾根を巻くように言われた。父はここからまっすぐ尾根に取り付きその上で、斜面の下から駆け登るノウサギをしとめるという。
 私は言われた通りにした。北向きの斜面を下りはじめたら柴木の根本から真っ白なノウサギが一頭飛び出し、手を伸ばせばつかめるところを駆けたが、腰まである雪で私は斜面の下にしか動けず、斜面の上に逃げるノウサギの長い足と丸いしっぽを見送った。斜面の下に取り付き「ホーイ ホーイ」と大声出して斜面をはつって(トラバース)歩いた。小一時間後、尾根の上で「ピィーッツ ピィーッツ」空の薬莢(やっきょう 弾を詰めた鞘)を父が鳴らした。狩りの終わりの合図だった。父は尾根からゆっくり降りてきて、背負った袋をおろし、その中の血塗れのノウサギを私に見せた。
 父は尾根の上の木の陰に隠れ「タツを張り」待っていて、谷下から勢子の私の声に驚き、斜面を駆け登り逃げるノウサギを二頭しとめていた。私は駆け登るノウサギを五頭ほど見ていた。後は「ブッカケタ」だけで、逃がしたらしかった。
 帰り道のことは覚えていないが、その後何度かノウサギ巻き、ヤマドリ撃ち、長い竹竿を持って杉林での夜のバンドリ撃ちにもつきあったが、中学生になると私は山歩きは疎遠になっていったが、父が冬の間、出稼ぎに出かけており、家に居なかったせいもある。
ノウサギは皮を剥き、ダイコン、ネギ、ジャガイモと一緒に煮られ「兎汁」となって夕飯となった。夕飯の後は家族が炬燵を囲み、ドンブリに盛られた兎の骨むしり。脳味噌の詰まった頭を誰が喰うかで兄弟喧嘩となったり、そして夜がふけたのだ。
 このころ、買った肉は喰ったことがなかった、というより肉を買う銭がなかったのだ。私は、中学生になるころ初めて、買った鶏肉、豚肉を食べた。これは冷凍食品で、わが家に冷蔵庫が入った後の事である。腐りやすい肉は冬に食べ、夏は干し魚とか、川で採った魚だったと思う。夏は葉タバコ栽培の手伝いで子どもでも忙しかった。

14 アカウサギ

< アカウサギ >

 博士山のノウサギは夏毛は茶褐色だが、冬になると耳の先端の黒毛を残して全身白色化して雪の色と同じ色(保護色)になる。このように本州で冬季に毛が白化するものを「トウホクノウサギ」と亜種区分して呼ぶこともある。

 冬の博士山のノウサギの話を父から聞いたので次に紹介する。
ノウサギが十年ほど前から数が減ってしまいまったく捕れない。博士山で、大岐だけで一冬にノウサギを二百羽から捕っていが、がくっと減った。今のノウサギの居る場所は杉が育ってからは、大きな杉林の中なんかにいる事多いのは鷹が恐いからだ。
 ノウサギは北向きの湿り気の無い斜面の上の方の雪に埋まった柴の根元で寝ている。北斜面は一日中温度が変わらないから樹冠に付いた雪が落ちないからよい。南斜面は日向でブナの樹冠についた雪が湿り、その「ボッコ」がぼたっつと落ち転がりながら雪を巻いて少しずつ大きな球となって斜面を落ちる。雪崩にもなることもあるので恐いので南向きにはいない。
 博士山には十頭に一頭くらいの割合で冬に白色化しない「アカウサギ」が混じる。生息する場所は白くなるのと同じところに棲む。いわゆる冬に白色化しない「ノウサギ」は関東などにいるが、関東の茶色のものとは色が異なり、茶色よりも色が薄くなり、赤色になる。今もアカウサギはいる。

15 山頂に集まるノウサギ 


< 山頂に集まるノウサギ >

 山頂から南西に流下するオゴンザ(黄金沢)周辺のブナの樹が有った時は、雪の深いときはノウサギはカラネコよりもずっと上の山頂付近に集まっていた。
 一、二月の寒の頃、雪がいっぱい降って寒くなるとノウサギは全部、博士のてっぺん(山頂の方)に集まっていた。三月半ばになり暖かくなると麓の方に降りて、暖かい南向きのところにもいるようになる。しかし、そんな時でも雪が降ると山頂の方、尾根の上の方に移る。
 ノウサギは沢にはいない。「エ」(表層雪崩)がこけるので、ソネギワ(尾根際)のなだらかなところにいる。博士のブナの樹を伐ってからは、ノウサギも変わった。あんまりかたまって(集団にまとまって)いない。昔と違うが、少しはてっぺんに集まるが、鷲や鷹が恐いから杉林なんかに隠れている。
 ノウサギの冬の餌は樹の萌えを喰っている。喰った樹はころ坊主だ。柴のような育ち遅れのブナやハナの樹を喰っているが、毎年同じ樹を喰っているから若い萌えがいっぱい出て喰いやすくなっていた。
 営林署のマキといって、補助が出て毎年一回はやっていた。昭和二十年代の頃、黒岩下って松倉から天狗様の陰やったときは三十人でヒトマキ(一回のマキ狩り)やって、ノウサギ九十五頭とれて、一人二頭づつ分けて残りを小野川の学校でみんなで喰った。三月半ばまで猟ができたころの話だ。

16 イヌワシとノウサギ 

< イヌワシとノウサギ >

 父の話や、菅家秋男氏などの話を聞いても冬のフキ(吹雪)の節にはノウサギが尾根に集まっているそうだ。それとイヌワシの行動は一致している。春先は、雪のキエッパ(消え際)をイヌワシが飛翔しているのもうなずける。
 一九九一年六月から野鳥の会と博士山ブナ林を守る会連合のイヌワシ調査が始まったが、四年間に数百日調査で山に入っているが、イヌワシがノウサギをつかんで飛翔するのをじっくりと見れたのはこの日だけである。
一九九三年八月二十九日の日曜日、曇で雲が低い日だったが北西風がほどよく吹き、六月十七日に博士山東麓から巣立った若ワシが真っ黒の両翼に丸い白斑を光らせて良く飛んだ日だった。イヌワシの調査日で山中の定められた八地点に二十名近くが潜み、八倍の双眼鏡や、二十倍の望遠鏡でイヌワシ一家の一日を早朝から追跡していた。
午前中私たちがエリア二七と呼ぶ斜面で待ち伏せ猟をしていた母ワシが午後一時十三分に尾根上にらせんに輪を描きながら上昇するのを発見した。発見後双眼鏡から三脚に据えた二十倍の望遠鏡に持ち換えてこの母ワシを見たら茶褐色のノウサギをつかんでいた。十九分までの六分間、若ワシを探して母ワシは飛翔していた。とある斜面に降下し、食餌となった様子だった。

17 祖父のナデツカレ 

< 祖父のナデツカレ >

 先に紹介した博士山のノウサギは厳冬期に山頂付近に集まる話だが、同じような事例も紹介しよう。
 「雪が降りそうだとウサギは事前に尾根の方に登っていく。だから猟やってて、ウサギが上の方ばかりいるので、明日あたり大雪降るのでねえかな、っていると、やっぱり雪が降った。雪が少ないと、だんだん食いながら下りてくる」と、『朝日連峰の狩人』(西澤信雄著 一九九一 山と渓谷社 一六八頁)のなかで話者で狩人の志田忠儀氏が述べている。

博士山で山頂付近に集まるノウサギをマキで狩るのは以前から行われていたようである。祖父・清次(一九〇七年生~一九七六年没)、つまり私の父・清一の父親だが、これも猟師だった。祖母トシによれば、清一が二歳の時(一九三四年頃)の旧暦一月十二日、博士山山頂近くの斜面で村の猟師とノウサギのマキ狩中に「エ」(表層雪崩)が発生し、巻き込まれ流され斜面の樹木にぶつかり、血だらけの姿で樹に引っかかっているのを、発見された。仲間が片道三時間もかかる雪上を大岐集落まで戻り、引き揚げた橇(ソリ)に乗せられ、家に運び込まれた。祖父は三日間意識が回復せず、しかし一命はとりとめ、この左の眉間を強打裂傷し出血が止まらず、それがもとで若くしてチュウキ(半身不随)となった。
 祖母の背中におぶわれた赤ん坊の父は見舞いに来る村の人の話を聞いており「てっぽう どーん と ゆった」だけを覚えたての言葉で繰り返し話していたと回想する。
 
 この祖父の時代の「ウサギマキ」も山頂近くで行われたことがわかる。効率よくノウサギを集団で捕るためには、博士山の地形を読みノウサギが厳冬期集合する生態をよく知ることから始まっている。カンジキを付け三~五時間かけて、厳冬期の深雪を漕ぎ、猟を行っていた。
 こうしたことは、豊富なノウサギの生存を支えたブナの森が有る程度の規模をもたなければならないことを示すものだ。尾根から谷間でまとまってブナ林が残さなければならなかったのだ。
 麓のノウサギの数が少なかったのか、それとも集落に近い麓は単独猟の場所としておき、奥山を集団で共同して行う狩の場として使い分けていたのか。
 けれども、ノウサギが厳冬期の山頂のブナ林内の梢まで雪に埋まった低木層を採餌していたこと、雪付きの問題もあり採餌しやすい環境があったのだろう。集団でいるのは繁殖期に入るからだったのではないか。また三月半ばからは麓に下りそこで出産したのだろう。尾根の上から、谷の下までノウサギは地形を巧みに利用している。その生態に拠った広がりを持つノウサギの行動域の森林の保護はなされずに伐採が進んだ。また、伐採により雪付きも変わった。厳冬期に始まり春彼岸頃に出産するノウサギの最も大切なはじめの繁殖が営まれるブナ林が消滅しており、そのため、森の周縁部に拡散し出現するノウサギの姿が少なくなり、ここ十年で激減したのだと思う。また、杉林が育つにつれノウサギの生活の場が変化しており、ブナの森の北斜面に隠れていたものが、より安全な杉林に隠れるようになるなどと、変化している。

 千メートルの尾根までブナが伐られ杉が植林される今の時代は、ノウサギにとっても、自らの命をノウサギによって支えられているイヌワシにとっても受難の時代である。福島県が主張するように伐採地、若い杉植林地は多くできた、しかし餌がいない。食堂だけでは食餌はできない。原資まで失っては、利子は出ない。一定の広がりを持つブナの森を核心部に持ってこそ、森の周縁部での人間による林業と野生生物の折り合いが付くのである。

 大ざっぱにいって、標高八百メートルから上の残されたブナ林は手を付けない、植林しないことが必要ではないか。杉を植えるにしても八百メートル以下の沢筋にしてもらいたいものだ。このような理由から残り少ないブナ林、特に博士山から南に伸びる一千メートルの尾根上のブナを大規模林道や広域基幹林道の大滝林道が伐採しながら進むことは、博士山のブナの森の保護、人間活動と野生生物の共存をはかる上でも、無理があり、この地帯に道を通すべきではない。道が通過すれば多くの人が入り込み、それを管理することは不可能となる。林業目的なら、標高の低いところ八百メートル以下を利用できないだろうかと、会津高田町・県に提案している。
また、ユネスコのMAB計画に見られるように、保護地帯、緩衝地帯、利用区という地帯区分を博士山にも応用し、野生生物の保護と林業との折り合いをつけるために柳津町、昭和村、会津高田町と福島県、林業者、地権者、山麓集落と、私たち保護団体による協議の場の設置も提案した(一月三十日)。

18 谷ヶ地の知恵

< 谷ヶ地の知恵 > やかぢ

 博士山の東の谷、会津高田町の谷ヶ地(やかぢ)。この村で生まれ狩猟も経験した林業家の栗城惣市氏(一九二五年生)と知り合い、一九九四年十一月二十六日に「つなぐ塾」の仲間とともに集落跡を歩きながら話を伺った。
 農林水産省東北農政局会津農業水利事務所による新宮川ダム建設により水没するために谷ヶ地(松阪)集落の五十八戸、一九三名が一九八三年九月に離村した。 断層なのかどうか、アルファベットのV字形に鋭く切れ込んだ谷の、博士川と大滝川の合流部に谷ヶ地は集落を形成し、標高は五二〇メートル。
集落の周囲の山の斜面は中腹まで杉が植えられている。栗城氏は「そこはカノ(焼畑)の跡だという。谷ヶ地は水田が無く、カノから収穫される雑穀と山のものに頼っていたので、杉は植えないことを昔から申し合わせていた。カノに杉を植えたのは戦後のことに思う。だから太い杉はまだ無いという」
 栗城氏の話から、森林伐採と土地利用に関する集落の取り決めが存在してたことがわかる。はたしてこうした制限はなぜ起きたのだろうか。
 『新宮川ダム水没地区松阪(谷ヶ地)民俗調査報告書』(会津高田町 一九八五)によれば山林使用収益権に関する集落間の取り決めを記した松阪三十八戸連名の協議確定書が成立した明治二十八(一八九五)年旧四月から制限無くブナ・ナラなどの伐採も盛んに行われ、炭焼きも自由にできるようになったとある。逆に言えばこの時期まで伐採が内部的に制限されていたのである。それはなぜか。
 報告書では谷ヶ地の森林資源は長い間の乱伐で採取可能な地域は皆伐されていたのではないかと推察している。
 
 文禄三(一五九四)年七月の蒲生高目録で「中村、入屋加地、中在家、下屋加地」と谷ヶ地各集落名があらわれ、石高は九十七石である。文化十五(一八一八)年は百石。安政三(一八五六)年は百石。二百六十七年間に石高の増加が無く、つまり耕地は早い時代に拓き尽くしていたことがわかる。
 安政三(一八五七)年当時は、柄麻、ぜんまい、鍬柄、下駄、炭、真綿、鑞、漆が産物として記録されてある。また年貢をかけられた漆の木が一千二百本ほどあったのではないかともしている。
 寛政八(一七九六)年の証文で山林利用の取り決めが明かとなっている。それによれば「炭窯場の義は、春一度、秋一度取り候筈。但し、二窯焼きは、我が山は一年春秋一度宛限り取り候筈」「下駄木の儀、他村の領分にては一年伐り置き、決して相成らず候筈」「薪木の儀、他村の領分にては一年切りの薪料ばかり、二年木相成らず候筈に相定め申し候」などと、奥地山地を除く手近な山々は製炭原木が不足し炭焼きを制限していたのではないかと報告書は記す。このような状態のなかで、山争いも絶えず、訴訟があり、前述した寛政八年の取り決めが確認された。なぜ会津盆地に近い谷が乱伐されたのかが問題である。
強い内的規制をせざろう得なかった原因は乱伐であったろうが、その乱伐を引き起こした原因はなんであったのか。乱伐があって、内的規制を作ったが、時間の経過とともにそれが守れないために再度寛政八年に取り決めを確認しているのである。近世初期に何があったのか、私はその原因のひとつを会津盆地西縁の会津活断層系による直下型の大地震に伴う復興(急激な材木需要が発生した)のために盆地周辺のかなりの森林が破壊されたのではと推察する。

19 慶長の会津地震

< 慶長の会津地震 >

一九九五年一月十七日午前五時四十六分、近畿地方で「兵庫県南部地震」が発生した。淡路島北東約三キロメートルの明石海峡の深さ約二十キロメートルが震源でマグニチュード七・二、震度七を記録した活断層による都市の直下型地震だった。死者五千二百七十三人余、行方不明六名、負傷者二万六千八百四人、倒損壊家屋十万七千六百十棟(二月六日)と「阪神大震災」である。被災された方には謹んでお見舞い申し上げ、足もと会津の地震も考えてみたい。

 慶長十六(一六一一)年九月二十七日(旧暦八月二十一日)の午前八時過ぎ、会津地域一帯を激しく揺り動かす直下型の大地震が発生した。若松城も石垣、塀、櫓がことごとく崩れ、七層の天守閣は傾き、瓦は下に落ち人馬が多く死亡した。
 この会津大地震はマグニチュード六・九、震度六(M六・九は宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』一九八七。寒川旭は一九八七年の報文『慶長十六年会津地震による地変と地震断層』のなかで会津坂下町塔寺で認められる変位量約二・五メートルの低断層崖の規模からM七・三と推定している)。領内の山々は崩れ、河川は塞がれ湖沼が生じ二万戸(ビスカイノの記録)ほどの家屋が倒壊した。死者は三千七百人に及んだ。熊野神社長床、心清水八幡神社立木観音堂、法用寺三重塔などの名刹が一瞬にして揺り倒れた。
 会津盆地の西縁に沿って四つの会津活断層系が発達しており、西側が上昇し東側が下降するような活動を繰り返している。この断層系の数十万年間に及ぶ活動によって、現在の会津盆地が造られた。
 山崩れの発生した地点は会津活断層系から十キロメートル以内、壊滅的な被害を受けた寺院と神社は、活断層の真上または、これから二百メートル以内の至近距離にある(鈴木敬治「会津の自然史」『歴史春秋三十三号』 一九九一 会津史学会、寒川旭『地震考古学』一九九二 中公新書)。

この一六一一年という近世初期に発生した会津地震により倒壊した寺社や民家の復興のための木材資源の対象は身近な会津盆地周縁部の森林に向けられたのではないかと私は推察するのである。川を持ち流し木ができるところは西南部では宮川流域である。地震震災復興のために博士山東麓の谷ヶ地の森林は相当伐られたのではないのか。
 谷ヶ地は、会津高田町街部伊佐須美神社から約十八キロメートルと近い。近年まで永井野、松岸川原周辺で宮川から揚げられた材木は陸路で運ばれている。
 また盆地西縁部では、この地震に伴う山崩れ地で水が湧き出し、ため池、堤とした例もある(明神ヶ岳断層に沿った蛇喰の品窪堤など)。

 会津地震から百八十五年後、寛政八年の谷ヶ地の証文で炭焼き、薪木の伐採を家庭用と思われる少量に制限してきたことを再確認している。それから九十九年後の明治二十八年には協議確定書でその制限を緩め解除し自由に伐採しだした。
慶長の地震の特需があったろう時期からの乱伐で森林が回復せず、内的規制を行いそれが乱れたために寛政年間に林野利用の内部規則を再確認したのでないだろうか。二百五十年近く内的規制を続け、そしてようやく森林伐採ができる山に回復したのが明治年間という具合には考えられないだろうか。
 こうした近世初期に身近な山から木が消えた時期があったのではないかということをふまえ、その後も銀山木と呼ばれる会津藩経営の軽井沢銀山の坑道や精錬に使用した材木、瓦壷を焼く窯業、製鉄等、また都市部で利用した薪炭の問題も考慮すると木地挽きが奥山に入らなければならない理由、つまり奥山にしかまとまった樹木が無かったであろうことを物語っているのではないだろうか。


 少々、話がそれたが、谷ヶ地では近世中期から明治年間まで森林伐採・炭焼きを自主的な集落内の内的規制(ルール)でもって極少数に制限していた。それは炭焼きを春一度秋一度、自分の持ち山でも一度限りとした点、下駄木の伐り置きの禁止、薪木は一年切りのみとした点である。特定の木材資源を切り尽くす、利用が集中すれば、環境そのものの再生産が不可能となり、その副産物である山菜、茸までもが採れなくなってしまう。同じような生業を営むためには、はるか奥山まで入らなくてはならなくなってしまう。このように森林伐採を内的規制で長期間、抑制できた谷ヶ地の方々の森を守り育てる知恵・努力が、森林の豊かさの象徴であるイヌワシ、クマタカを長くこの山にとどめ、会津における野生生物の最後の砦に博士山が成り得たのではないだろうか。
 近代までこうした森林の利用の厳密さを保っていた、谷ヶ地集落の人々の見識は現代において充分に評価されよう。しかし、明治中期に取り決めは取りやめ、自らを支えた束縛を解放し、それが結果としてダム湖底に水没する運命を引き寄せたこととなり、一九八三年に集落移転、そして廃村となった。移転を余儀なくされた方々は本当に無念であったと思う。

 谷ヶ地の領分の博士山東南麓は千メートルの尾根までもが福島県林業公社により杉の植林地となった。西麓のブナを切り尽くしても、国有林野経営の赤字は膨らむ一方の林野庁は、博士山不動沢林道も落石崩壊で荒れるに任せ修復する金も無い。また新たに林道建設する財源を持たない林野庁・前橋営林局が、博士峠近くの町村境界を越え、わずかに残された博士山国有林のブナ林伐採のために建設される。新宮川ダムの水没保障のためという趣旨の大滝林道の路線を変え、国有地に引き込み、国有林内の十路線林道を広域に連結する「基幹林道」とすることで認可し、着工に至った(『林道大滝線全体計画調査報告書』一九八六福島県)。
 野生生物最後の砦である残されたわずかなブナ国有林。その森さえ迂回できない林道計画。今まさに強引に着工されようとしている。イヌワシを支える森林でもある現在の博士山ブナ林を巡る最大の問題となっている。
水没対策協議会の会長も務めた栗城惣市氏は「自治体が地上権を借り上げ、樹齢百五十年の太いブナの森に戻すべきだ。ダム建設のために山を下りた我々地権者の生活の足しになるし、今年干ばつに見舞われた下流域の水源確保にもなる。太くしてから少しずつ切り出せば、役場も借り上げ料は回収できる」(朝日新聞会津若松通信局遠藤雄二記者『イヌワシと共存目指す会津地方』一九九五 グリーンパワー 一九四号 森林文化協会)とは卓越した課題解決の提案だ。イヌワシの保護のためにその協力が不可欠な地元地権者のこうした提案を聞かず、単に狩猟制限区設置をするだけの保護策(休猟区では都市部のハンターによる熊の密猟も横行しているのに取り締まれない)で林道開削や森林伐採、杉の植林は見直さないとしているところに、私たちは県や国の無責任さを見る。一つがいのイヌワシさえも守れない国・県に、私たちは未来を託して暮らしているのだろうか。

20 カラムシとアサ 

< カラムシとアサ >

私のトショバア(年寄り婆さん、曽祖母)は名をトメ(一八八三年生~一九七一年没)といい、カラムシの本場である大芦から十五、六のときに大岐に嫁いできた。村のカミ(上流)の高畠にあるカラムシ畑から収穫したカラムシは、家に持ち帰られる。私の子どもの頃の記憶では、カラムシのヒキ手は祖母のトシ(一九〇九年生~)で、陰干しして原麻(原苧)で売った。カラムシとともアサも栽培しており、アサの原麻の繊維を裂き繋ぎ、トメとトシがオウミ(麻績み)をして、トシが春に機にかけ布に織りあげ売った。曽祖母トメはいつものようにオウミをして、昼寝に部屋に戻り脳溢血で倒れ三日後に八十七歳で死去した。曽祖母トメとともにわが家のカラムシ栽培は幕を閉じた。
 一九七八年、会津工業高校を卒業して地元の農協の臨時職員として働きだした私は、野尻和久平の縄文遺跡破壊に異議をとなえ、当時の公民館長菅家長平氏は「それではキミも保護を」と、村文化財保護審議会の委員に任命された(村が進める博士山リゾート開発の反対運動を始めた事により解任されるまでの十年間務める)。
 そして大芦の農民絵師皆川伝三郎氏と出会う。村内の石仏調査等の後、皆川氏ら大芦の方々が収集し、廃校となった大芦小学校に保管していた膨大な民具の中から、カラムシ栽培に関する民具をリストアップする作業にとりかかった(一九八二年から)。皆川氏の強い要請により村の教育委員会により作業は進められることとなった。一九八一年二月に農協を辞め、日本青年奉仕協会の一年間ボランティア活動を終え、農業を始めた年である。農作業の合間に大芦に通った。
 隣村の南郷村教育委員会がすでにアサの栽培用具で県の文化財指定を受けていたため、安藤紫香氏の助言を得てから、私は大芦の老人から民具名称を教えていただきながら、一点ずつ写真を撮り計測(栗城英夫氏が担当)し、台帳を作成した。
 こうして昭和村教育委員会により申請され、これが福島県指定重要有形民俗文化財『昭和村のからむし生産用具とその製品三七一点』となった。カラムシを栽培し布に織る道具たちと、それを守る大芦の人々と私の出会いであった。

 カラムシとアサの栽培から布に織りあげるまでを記録する作業が一九八六年の雪解けの季節からはじまった。「カラムシ栽培は企業秘密である」からと、村役場より撮影中止命令等が出されたりしたが、民族文化映像研究所による自主制作「からむしと麻」という映画は一九八八年に完成する。カラムシの生産は大芦の五十嵐初喜・スイ子さん、麻についてはわが家の仕事を一部始終撮影した。
 その後もしばらく、祖母トシは、オウミを続けたが、脳梗塞で倒れ入院したため、父母も麻の栽培を止めた。
映画の撮影が始まった翌年、姫田氏の強いすすめによって私たちはトヨタ財団の研究コンクールに応募、八九年までカラムシを栽培しながら研究を行った。姫田氏はカラムシとアサという異なる二種類の繊維植物の栽培の意味にこだわり、私たちは叱咤激励された。
 世の中の人々や研究者が今までカラムシだけしか注視せず、その保護だけを考えてきたが、カラムシの陰に隠れて見えなかったアサがじつはカラムシ生産を支えていたという重要な点を、その後の栽培体験と研究によって気づかされるのである。
 イラクサ科の多年草である「カラムシ」(苧、苧麻、青麻)と、クワ科のアサ(麻、大麻)が博士山の西麓の大岐、小野川集落、それに昭和村大芦一帯にかけて今でも少し栽培されている。いずれも古代から日本人が利用してきたものだ。
 繊維をとりだし、乾燥させ原麻として売るか、裂いて糸に紡いで機にかけ布を織る。いずれも地味の肥えた上畑に植え付け、種蒔きをする。カラムシは五月半ばに萱を掛け畑を焼き、水で薄めた人糞尿を蒔き灰を押さえ、堆肥を散らす。畑の周囲に萱で風よけの垣を結い、焼きで揃った新芽が一斉に伸長したものを七月半ばから一月にかけて収穫し繊維を取り出す。古文書等によれば近世から戦前にかけてはこれらの繊維の原料の一大生産地となっており、この原麻商品が村の暮らしを支えたのである。

 新しい畑に植え付けると五~八年でカラムシの根は弱りウセクチがたち(欠株が多くなる、連作による障害と思われる。失せ朽ち、失せ口)、根を掘り上げ別な畑に植える。
 畑のウセクチがたった穴(パッチ)状の空間に、アサを蒔き、カラムシとアサを同時に育て、ウセクチ側のカラムシが多く陽光を浴びることにより硬く太くなることを防いだ技術も、緊急的な対応として行われていた(五十嵐初喜氏による)。
 ウセクチのたったカラムシ畑では、その根を掘り起こし畑の外に持ち出し、アサの種が蒔かれ、しばらくの間はアサがつくられ、数年後地力が回復したころにまたカラムシの根が植え込まれた。

 アサを引き抜いた収穫後の畑には「オバタケナ(苧畑菜)」が蒔かれ秋遅く収穫していた。
 こうして一枚の畑で「カラムシ→アサ→カラムシ→アサ・・・」という循環・輪作で利用し、この畑をいくつかカラムシの育成中のものをうまく組み合わせることにより、限られた面積の畑から一定品質一定量の収穫を得て、永年収穫でき、産地の維持が可能となっていたのである。
 アサとカラムシという異なる二種類の繊維作物をうまく取り込み、支えあった。アサがあったからカラムシの栽培が続いた。その売り方にしても、原料で出すカラムシと、加工し製品化したアサという具合に使いわけたのである。しかし経済状況の大きな変化、化学繊維の台頭から産地はしぼみ続けてきたのである。
 アサは、夏の終わりに収穫したあとに乾燥させ、秋に水に戻し、または専用の釜で蒸かしてから皮を剥いだ。これは麻糸、冬に裂き糸を製し、春に機にかけだれもが布を織った。麻布は裃地か、蚊帳地などの原料として売るか、自家用の衣料、もち米を蒸かすときに敷き使う「スキンノウ」となった。
 また原麻は手引きろくろの紐として重宝だったため、木地挽き(木地屋)の手にも渡った。昭和村では近世から近代にかけて、アサの大産地を取り囲むように木地挽きが山中で会津漆器となる椀の荒型を生産していたのである。
 アサ糸を縦糸に、カラムシを横糸にして織りあげた布は「カタヤマ」といって裃の原料、またカラムシの横糸によりをかけないヒラヨコという糸を持って織ったものを仕立てては葬儀等のカブリカタビラ(被り帷子)とした。

 カラムシの収穫は男が、カラムシひきは若い女が、糸と織りも女が行った。
 冬に男が山に猟にでかければ、女は家で原麻から糸を取り出し繋ぐオウミ(麻績み、苧績み)が延々と続けられた。
会津一帯でもこのような繊維作物の栽培は続けられていた。近現代に入りカラムシの栽培は姿を次々と消し、本州では昭和村だけに残ったのである。
 いやカラムシを残したのである。大芦地区では「カラムシだけは無くすんなよ」と世代を超えて遺言されたというから、「なくさないぞ」と、それをかたくなに守ったのだ。

 博士山麓にこのような繊維作物が普及した理由は、栽培に適していたという半面、高標高地で米作が不安定で収量が低く、換金できるような作物が他になかったからではなかったのか、とも考えられる。

 雪が深いことが宿根性のカラムシの根を護ったに違いない。その雪のために果樹や桐なども少なかったのか、それともカラムシやアサが植えられた畑を守るために相性の悪い樹木を畑に入れなかったか、とも考えられる。
 また、偶然なのか奥会津から只見川下流にかけて、桐の木を植えた地帯は、大沼郡金山町の沼沢火山噴出物の堆積層上に営まれている。昭和村、特にカラムシ・アサの産地大芦・小野川は、その噴出物による堆積層が見られず、こうした土壌の違いも指摘できよう。
 

21 葉タバコの栽培とブナ実ひろい 

< 葉タバコの栽培とブナ実ひろい >

 一九四五年八月の第二次世界大戦の敗北を期して、荒廃した都市から山の村に人が一時的に避難し、一九五〇年代は村に人があふれ、都市の復興とともに人が戻って行った。
 こうした食料増産の時代に私の村では「葉タバコ」の栽培を組織的に開始し、栽培面積を拡大し産地化をはかった。それが三十余年の間、村人の暮らしを支えることとなった。
 父が結婚した頃のことで、私が生まれる少し前のことだ。わが家も炭焼きと葉タバコ、冬には父が首都圏へ出稼ぎに行った。集落どの家も同じようであった。
 おおまかに言えば、村を支えた農作物は、近世のカラムシとアサ、戦後からは葉タバコと出稼ぎであったといえよう。

 高校を卒業した私は、一九八〇年に「なかよしバンド」の結成に加わり、八六年から九〇年にかけて「昭和ボランティア協会」「じねんと塾」「昭和村生活文化研究会」と仲間とともに活動を始める。前述したように「昭和村生活文化研究会」は姫田忠義氏、周東一也氏、五十嵐初喜氏、菊池成彦氏を顧問を迎え「からむし生産の記録と研究」に取り組みトヨタ財団の第五回研究コンクールの助成を受け予備研究、奨励研究を行った。
 この研究を通して、昭和村に適し村人が選び取り育てた作物というのは「食料以外の嗜好品」であったことに気づかされたのである。
 当時の花栽培は広がりを見せずいたが、葉タバコの減反と専売公社の民営化で、他に作る物がないので一九八三年から私も学習をはじめ、一九八四年から花栽培に取り組むこととなる。そうしたことができたのは、すでに村の中に十年前から細々と試行錯誤の草花栽培をしていた人がいたのだ。
その人は、私の家の二軒隣の次男・菅家秋男氏。一九七三年から大岐で草花の栽培を始め「昭和園芸」を名乗った。私が中学二年生になった春であった。秋男氏は、てはじめに山草物・実物等の集荷業者として活躍し、博士山のブナの実を村人に拾わせた。
 この「ブナ実拾い」のために父母は私と小学生の兄弟共々連れ、博士山に入った。初めて林道を登り、博士山奥深くブナの森にわけ入り、秋の土日のすべてを一粒一粒指でブナの小さな実を拾った。
 村人が拾ったブナの実は一升数千円で秋男氏に納め、秋男氏は播種して苗を売り、種を売った。
 ブナは豊作の年にしか実を付けないために、このブナ実拾いはすぐに終わった。
 これが、秋男氏と私の出会いである。秋男氏は博士山の資源そのものを商品化した先達であるが、それとは別に博士山を冠する商品が出始める。「会津博士山の花」「柳津博士の蕎麦」などである。博士山にどのような未来を託すのか、山麓の人々の暮らしの深部から永続的に利用できる知恵を掘り返す必要がある。
 
 また、私たちの現代の暮らしの流儀により、足もとの生物種を失っていることをもっと気にかけられなければならないと思う。森林の乱伐、植林、水田に散布する農薬類によって、水辺から種の絶滅が始まり、森林に生息するノウサギ、クマタカ、イヌワシ等にその影響が及んでいるのだ。
 博士山火山地形の扇状の西麓を滝谷川が巻き北に流れる。滝谷川と、流れ込む沢の水の中を見てみると、魚のユワナ(イワナ)、カジカ、ヘイ(アカハラ)、ボヤ(ハヤ、この稚魚はシミズといって手拭いですくいとって食べた)、ドジョウ、スナメ、そして貝であるツブ(ツブタロ)、エビがいた。水田には多くの水棲の昆虫がいたが今は全く見られないものの方が多い。
失ったもの、失いつつあるもの、再生できるもの、なくしてはいけないものを、資源ばかりでなく、それにまつわる文化を含めた検証が必要であろう。

地形や植生、標高を無視した古き時代の杉の一斉造林とそのための林道開削は、時代にそぐわないので見直すべきだ。計画は実施することに意義があるんだとそれを金科玉条にした公共事業が今いちばん大切な森を破壊している。
 山麓に棲む人々も、町村を率いるリーダーも、国や県による計画のごり押し的な実行の催促に押し流されずに、未来を見据えて計画を見直してほしい。刹那的にこれ以上の森林破壊、植生改変を進行させることは慎み、先人の賢い資源利用を掘り起こし、それに学び、それを次世代に伝えていくべきであると私は考える。


22 宿根カスミソウ 

< 宿根カスミソウ >

 一九八四年七月、「昭和花き研究会」の設立。七名で始まった。秋男氏、その兄の文男氏、女性で愛子氏、とみ子氏、いみ子氏、私の叔父である武清氏と私である。当時はグラジオラス、リンドウ、スターチスシュニアタ、オミナエシが多く、百品種くらいを小規模に栽培していた。年を追うにしたがって葉タバコの減反から、作る物が他にないからと私のように花栽培に移行する人が増え、昭和花き研究会も会員が三十余名になり、昭和村農協花き部会も栽培者が五十名を超え、柳津町農協でも増えている。切り花のなかでも「宿根カスミソウ」の生産の技術と販売努力が功を奏したため、売れ市場から信頼され、結果多くの人を養っているのである。
 こうして、博士山の西の麓の村では「カラムシ・アサ」「葉タバコ」「切り花のカスミソウ」と、食料以外の生産物が村を支える系譜となっている。
 

23 花をめでる 

< 多種多様な山野草の花をめでる >

かつて集落の田畑の周囲には萱場(かやば)、萱刈場があった。大岐でもオオバデエラ、オオカワムカイ、ナラブッパラ、サケンサア、タカバタケ等の萱場を持っていた。萱(カヤはボーガヤ、コガヤなどの種類があり使い分けている)は家畜の餌のための草として、また踏ませて堆肥として田畑に入れた。刈り取り乾燥させ家の冬囲いにまず使いさらに乾燥させ、その後天井に保管し貯めてから麻殻(アサガラ、オガラ)とともに屋根を葺いた。また、カラムシ畑の垣としたあと、畑にしきこんだ。カラムシ畑の焼草ともしたし、小正月のサイノカミにも使った。
 時代とともにこうした萱場は使われなくなり、この村人の共同所有の原野(入会地・共有地)は、個人に分筆され水田に開墾されたり、杉が植えられることとなる。
 集落より高みの森との接点にある萱場は、森と集落とを結ぶもので、祖先に供える花々を摘んだ野原でもあった。
大岐の盆や彼岸は、ナラブッパラ(楢布原、戦後から入植開拓され奈良布と改名)の萱場から「アワ花」(オミナエシ)、「リンドウ」等を取り、家近くに植えてある黄色い「ボンバナ」を持ち、火をつけたカラムシカラ(苧殻)の松明とともに墓に供え、飾り、手を合わせ供養していた。
野にある花、祖先の生活の舞台であった萱場での労働の合間に目を留めた花、それが墓前に飾られる。また、秋の十五夜は野山の栗やアケビやヤマブドウとともにカヤ(ススキ)なども供える。
 
 欧米人の感性で選抜された現代の花々によそよそしさを感じながらも、時折、山に入って園芸化されない野の花の心に染み入る美しさ、いとおしさを感じる人は多い。大切にしたい感性だ。

混沌とした時代だが、地にあった、地の感性が受け入れられる時代はもうすぐそこまで来ていると思われるのだ。すべての行為を金銭に結び付け考える現代社会に生きる私たちに、次の言葉を記し、私に与えられた一章を閉じよう。
 
 「私たちは行き着くところ地域資源をより効率的に利用することでもなく、破壊的でない活用方法を学ぶことでもない。生命が持つ固有の価値を認識し、それらが日々再生を繰り返す複雑さと美しさを感じとること。みなひとつの存在なのだという当惑するような暗示を受け取ることなのだ」(ジョナサン・ポリット『地球を救え』一九九一 岩波書店)           
1995.2.11


 一部は次に発表している。
「じねんと」七十二号(九十五年三月)
                   七十三号(九十五年四月)
「会津日報」     九十五年二月

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