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20 カラムシとアサ 

< カラムシとアサ >

私のトショバア(年寄り婆さん、曽祖母)は名をトメ(一八八三年生~一九七一年没)といい、カラムシの本場である大芦から十五、六のときに大岐に嫁いできた。村のカミ(上流)の高畠にあるカラムシ畑から収穫したカラムシは、家に持ち帰られる。私の子どもの頃の記憶では、カラムシのヒキ手は祖母のトシ(一九〇九年生~)で、陰干しして原麻(原苧)で売った。カラムシとともアサも栽培しており、アサの原麻の繊維を裂き繋ぎ、トメとトシがオウミ(麻績み)をして、トシが春に機にかけ布に織りあげ売った。曽祖母トメはいつものようにオウミをして、昼寝に部屋に戻り脳溢血で倒れ三日後に八十七歳で死去した。曽祖母トメとともにわが家のカラムシ栽培は幕を閉じた。
 一九七八年、会津工業高校を卒業して地元の農協の臨時職員として働きだした私は、野尻和久平の縄文遺跡破壊に異議をとなえ、当時の公民館長菅家長平氏は「それではキミも保護を」と、村文化財保護審議会の委員に任命された(村が進める博士山リゾート開発の反対運動を始めた事により解任されるまでの十年間務める)。
 そして大芦の農民絵師皆川伝三郎氏と出会う。村内の石仏調査等の後、皆川氏ら大芦の方々が収集し、廃校となった大芦小学校に保管していた膨大な民具の中から、カラムシ栽培に関する民具をリストアップする作業にとりかかった(一九八二年から)。皆川氏の強い要請により村の教育委員会により作業は進められることとなった。一九八一年二月に農協を辞め、日本青年奉仕協会の一年間ボランティア活動を終え、農業を始めた年である。農作業の合間に大芦に通った。
 隣村の南郷村教育委員会がすでにアサの栽培用具で県の文化財指定を受けていたため、安藤紫香氏の助言を得てから、私は大芦の老人から民具名称を教えていただきながら、一点ずつ写真を撮り計測(栗城英夫氏が担当)し、台帳を作成した。
 こうして昭和村教育委員会により申請され、これが福島県指定重要有形民俗文化財『昭和村のからむし生産用具とその製品三七一点』となった。カラムシを栽培し布に織る道具たちと、それを守る大芦の人々と私の出会いであった。

 カラムシとアサの栽培から布に織りあげるまでを記録する作業が一九八六年の雪解けの季節からはじまった。「カラムシ栽培は企業秘密である」からと、村役場より撮影中止命令等が出されたりしたが、民族文化映像研究所による自主制作「からむしと麻」という映画は一九八八年に完成する。カラムシの生産は大芦の五十嵐初喜・スイ子さん、麻についてはわが家の仕事を一部始終撮影した。
 その後もしばらく、祖母トシは、オウミを続けたが、脳梗塞で倒れ入院したため、父母も麻の栽培を止めた。
映画の撮影が始まった翌年、姫田氏の強いすすめによって私たちはトヨタ財団の研究コンクールに応募、八九年までカラムシを栽培しながら研究を行った。姫田氏はカラムシとアサという異なる二種類の繊維植物の栽培の意味にこだわり、私たちは叱咤激励された。
 世の中の人々や研究者が今までカラムシだけしか注視せず、その保護だけを考えてきたが、カラムシの陰に隠れて見えなかったアサがじつはカラムシ生産を支えていたという重要な点を、その後の栽培体験と研究によって気づかされるのである。
 イラクサ科の多年草である「カラムシ」(苧、苧麻、青麻)と、クワ科のアサ(麻、大麻)が博士山の西麓の大岐、小野川集落、それに昭和村大芦一帯にかけて今でも少し栽培されている。いずれも古代から日本人が利用してきたものだ。
 繊維をとりだし、乾燥させ原麻として売るか、裂いて糸に紡いで機にかけ布を織る。いずれも地味の肥えた上畑に植え付け、種蒔きをする。カラムシは五月半ばに萱を掛け畑を焼き、水で薄めた人糞尿を蒔き灰を押さえ、堆肥を散らす。畑の周囲に萱で風よけの垣を結い、焼きで揃った新芽が一斉に伸長したものを七月半ばから一月にかけて収穫し繊維を取り出す。古文書等によれば近世から戦前にかけてはこれらの繊維の原料の一大生産地となっており、この原麻商品が村の暮らしを支えたのである。

 新しい畑に植え付けると五~八年でカラムシの根は弱りウセクチがたち(欠株が多くなる、連作による障害と思われる。失せ朽ち、失せ口)、根を掘り上げ別な畑に植える。
 畑のウセクチがたった穴(パッチ)状の空間に、アサを蒔き、カラムシとアサを同時に育て、ウセクチ側のカラムシが多く陽光を浴びることにより硬く太くなることを防いだ技術も、緊急的な対応として行われていた(五十嵐初喜氏による)。
 ウセクチのたったカラムシ畑では、その根を掘り起こし畑の外に持ち出し、アサの種が蒔かれ、しばらくの間はアサがつくられ、数年後地力が回復したころにまたカラムシの根が植え込まれた。

 アサを引き抜いた収穫後の畑には「オバタケナ(苧畑菜)」が蒔かれ秋遅く収穫していた。
 こうして一枚の畑で「カラムシ→アサ→カラムシ→アサ・・・」という循環・輪作で利用し、この畑をいくつかカラムシの育成中のものをうまく組み合わせることにより、限られた面積の畑から一定品質一定量の収穫を得て、永年収穫でき、産地の維持が可能となっていたのである。
 アサとカラムシという異なる二種類の繊維作物をうまく取り込み、支えあった。アサがあったからカラムシの栽培が続いた。その売り方にしても、原料で出すカラムシと、加工し製品化したアサという具合に使いわけたのである。しかし経済状況の大きな変化、化学繊維の台頭から産地はしぼみ続けてきたのである。
 アサは、夏の終わりに収穫したあとに乾燥させ、秋に水に戻し、または専用の釜で蒸かしてから皮を剥いだ。これは麻糸、冬に裂き糸を製し、春に機にかけだれもが布を織った。麻布は裃地か、蚊帳地などの原料として売るか、自家用の衣料、もち米を蒸かすときに敷き使う「スキンノウ」となった。
 また原麻は手引きろくろの紐として重宝だったため、木地挽き(木地屋)の手にも渡った。昭和村では近世から近代にかけて、アサの大産地を取り囲むように木地挽きが山中で会津漆器となる椀の荒型を生産していたのである。
 アサ糸を縦糸に、カラムシを横糸にして織りあげた布は「カタヤマ」といって裃の原料、またカラムシの横糸によりをかけないヒラヨコという糸を持って織ったものを仕立てては葬儀等のカブリカタビラ(被り帷子)とした。

 カラムシの収穫は男が、カラムシひきは若い女が、糸と織りも女が行った。
 冬に男が山に猟にでかければ、女は家で原麻から糸を取り出し繋ぐオウミ(麻績み、苧績み)が延々と続けられた。
会津一帯でもこのような繊維作物の栽培は続けられていた。近現代に入りカラムシの栽培は姿を次々と消し、本州では昭和村だけに残ったのである。
 いやカラムシを残したのである。大芦地区では「カラムシだけは無くすんなよ」と世代を超えて遺言されたというから、「なくさないぞ」と、それをかたくなに守ったのだ。

 博士山麓にこのような繊維作物が普及した理由は、栽培に適していたという半面、高標高地で米作が不安定で収量が低く、換金できるような作物が他になかったからではなかったのか、とも考えられる。

 雪が深いことが宿根性のカラムシの根を護ったに違いない。その雪のために果樹や桐なども少なかったのか、それともカラムシやアサが植えられた畑を守るために相性の悪い樹木を畑に入れなかったか、とも考えられる。
 また、偶然なのか奥会津から只見川下流にかけて、桐の木を植えた地帯は、大沼郡金山町の沼沢火山噴出物の堆積層上に営まれている。昭和村、特にカラムシ・アサの産地大芦・小野川は、その噴出物による堆積層が見られず、こうした土壌の違いも指摘できよう。
 

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