竹富島文献資料

2010年5月25日 (火)

生態民俗学序説

■野本寛一『生態民俗学序説』(1987年、白水社、12,000円)の509ページから、西表島をめぐる民俗的生態集中、について記述している。

 竹富島などから西表島への舟での往来を、

 離島と猪

 水稲出作り

 木材

■竹富島と新城島の人々が「ユンカイ」「ユーノニガイ」に際して(西表島)古見岳を遙拝することの意義は極めて大きい。これまで見てきた通り、八重山離島の人々は西表島に田を作り、西表島で猪を獲り、西表島から家屋建築のため木や舟木を伐り出した。さらには命の源泉ともいうべき水までも西表島に求めていた。極論すれば八重山離島の人々の「ユー」は西表島からもたらされていたと言ってもよく、古見岳はその西表島の象徴であった。ニライカナイは決して観念ではなく、西表島という現実の存在をステップとしてその彼方に想定されたものであり、(竹富島西岸の)ニーランの浜・(新城島上地の)マフネの浜は、このような性格のニライカナイに対する聖なる祈りの場であった。(略)

 古く開けた西表島が何ゆえに栄え続けなかったかと言えば、それは柳田(国男)翁も指摘する通りマラリアの猖獗であった。狩猟採集時代から歴史時代に入り近代に至るまで、西表島では集落の消長・滅亡と復活が何度もくりかえされてきたはずであり、集落が絶滅の危機に瀕するたびに離島への「分散」が繰り返されたのではあるまいか。自然の恵み豊かな西表島をさしおいて、木も水も少ない離島に人が優先的に定住するはずはないのである。してみると、西表島は離島の人々の故郷だと考えることもできる。たとえ西表島から離れた日の記憶や伝承が消えはてても、水と木に恵まれた西表島、それもとりわけ古見岳こそ、離島の人々の魂の原郷だと見ることができるのではなかろうか(529ページ)。

■ マラリア、遠距離通耕等について → 既報

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2010.4.12 18:53菅家博昭撮影(竹富島西桟橋より)

ニールスク(根の底)という他界感

■2010年4月11日午後に私ははじめて沖縄県八重山郡竹富島に立った。山と川の無い国ははじめてであった。

■前述書、野本寛一『焼畑民俗文化論』(1984,雄山閣)の411ページ。山と焼畑文化圏の信仰、に以下のようなことが書かれているので紹介する。

 八重山諸島の中で、高山を持つのは西表島と石垣島である。中でも、西表島は山の島だと言える。西表島は、八重山の離島の人びとに木をもたらし、水をもたらし、時に獣肉をもたらした。鳩間にも、竹富にも、新城島にも猪狩の名人がいた。そして離島の人びとは西表島へ稲の出作りにも赴いた。鳩間島の人びとは宇奈利崎から高名の間、竹富島の人びとは美原周辺、黒島の人びとも美原周辺へ、そして新城島の人びとは南風見崎周辺に舟通いで出作りをした。こうしてみると、離島の人びとにとって、山を持つ島「山」はまさに原郷であり、あらゆる恵みをもたらしてくれるくらしの母であった。

 赤マタ・黒マタは、その山から生まれ、山に帰るのである。八重山諸島の人びとにとって赤マタ・黒マタは山の神なのである。「ニライカナイ」という海の彼方を他界とし、聖なる世界とする他界観があまりにも有名になっているのであるが、一方で「ニールスク」(根の底)という他界観もある。しかし、赤マタ・黒マタの原郷を探り、赤マタ・黒マタの環境をつぶさに眺めれば、そこの「山」が存在することは厳然とした事実である。全く山を持たない宮古諸島の世界観と、西表・石垣といった山の島を持つ八重山とは当然世界観が異なるはずである。ニライカナイを見すえたところで、その彼方にあるのは、木と水と食の豊かな「島山」の世界であるはずだ。

 赤マタの本質を考える場合、先に見たとおり「生態民俗学」的な視点に立ち、多角的、有機的に八重山の民俗をさぐってこそ、その姿が瞥見できるはずなのである。

■卓見だと思う。

 2006年4月、野本寛一先生の奥会津調査に同行

 → あるくみるきく

 → いとなみから学ぶ

 → 出された赤飯

 ※雑誌『会津学』2号(2006年、奥会津書房)に掲載

竹富島の焼畑

■2010年5月23日(日)午前8時30分から、奥会津昭和村野尻のイショイリにある村の保存会のカラムシ畑では火入れが行われカラムシ焼きが無事行われた。午後より雨となり灰も押さえられたいへんうまい時間の設定であった。

■かつてさて、カラムシの栽培地でもある沖縄県八重山地方ではどうであったのか?カラムシではないが、竹富島の畑作文化の調査記録があるので紹介する。

 野本寛一『焼畑民俗文化論』(1984年、雄山閣出版)から。

 561ページから565ページまで、竹富島の焼畑について記述している。

 明治26年生まれの方がキーヤマの方法を語っている。竹富の樹林にはハブが棲息するし、枝の繁茂も激しいので、伐採作業が困難なため、まず、木を伐らない状態の樹林に火を入れ、いったん焼いておいてから伐った。太い木は女たちが焚木として家に運び出し、そのあと、小枝や焼け残りの木を集めて再度焼いたのだそうだ。そのあと「イシンガイ(石鍬)」と呼ばれるツルハシ状の鍬で木の根を起こし、整地し、三年間から長い場合は五年間も作物を輪作した。その後二年から五年ほどアラシておくと原野になるので、そこを再度焼くという形に展開させていった。この形が南島の焼畑の祖型であると見てよさそうである。

 アーラシハタイという形は、右のようにして原生樹林を開いたあとを切替畑的に展開させるものなのである。(略)

 アーラシハタイにする地には、いくら荒れていても石垣があり、その傍らに「ハテヤ」と呼ばれる「畑小屋」があるのが普通だった。およそ三年~五年間輪作し、二年~五年間休閑させるといった循環があったのである。

 キーヤマを焼く場合にも、アーラシハタイを焼く場合にも、竹富島では、火入れの儀礼が丁重に実修されていたのであった。アーラシハタイの場合、石垣の外側一間幅ほどの地の草木を伐りはらって防火帯を作った。これを「アジラAZIRAのニハライ」(畦の根払い)と呼ぶ。キーヤマ・アーラシハタイともに「ユイマーロー」(結い)で行った。

 アーラシハタイの火入れの儀礼は、およそ次のように行われていた。刈り払ったカヤ(萱、ススキ)をひとかかえ、焼こうと思う地の真ん中へその家の主人が持ち運び、二、三名がつき従った。そこで主人は次のような願い事を唱した。

 ピーイリのニガイ(火入れの願い)

 「尊い神様、今日の白銀の日、黄金の日に火縄入れをして、大きい火、野火を入れた場合、東風が吹いたら西風で止めてください。南風が吹いたら北風で止めてください。この囲まれた範囲、この地内の火難がないよう済ませてください。尊い神様」

 

2010年5月10日 (月)

貴重ないきものたち

■2010年5月10日、午前11時31分、沖縄県庁の自然保護課から4月22日の件について、ていねいな回答がありました。ありがとうございました。

■2007年8月、星野リゾート(長野県)は沖縄県八重山郡竹富島の開発予定地を無許可伐採・焼却・文化財アジラ遺構等を破壊・整地した。その後、2008年6月に沖縄県に開発の事前協議を行い、8月に開発予定地の調査を行っている、としている。

 星野リゾートは沖縄県知事宛、以下の報告書を2008年10月2日に提出している。

『竹富島東部施設計画に伴う環境調査報告書』

『竹富町東部におけるハスノハギリ群落の現況について』

 これらの報告書には、星野リゾートは次のように書いている。

 宿泊施設内に天然記念物の写真を掲示し、捕獲等をしないよう注意を呼びかけるようにします。発見された場合は、天然記念物を保護する対策等を竹富町教育委員会と協議します。

■みずから開発許可申請の1年前に、天然記念物が生息する開発予定地を無許可伐採・焼却・整地して廃墟状態にしておき、「天然記念物は生息していない」状態にして調査を行い、生息していない結果を導き出している。

■↓写真転載(伐採・焼却・整地された竹富島東部、星野リゾート開発予定地) → 竹富島憲章を生かす会ウェブサイト(現地)

 残した樹木は2010年4月11日、菅家現地調査時には、すべて立ち枯れている。

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2010年5月 9日 (日)

5月11日、竹富島に学ぶ・奥会津集会

■5月11日に菅家博昭の報告レジュメ。

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    2010.5.11 菅家博昭
1.列島改造不動産取得・リゾート開発の亡霊
  
1972年 沖縄返還・列島改造論
1985年9月22日 プラザ合意。円高で不況に。230円→150円。
      内需拡大政策へ。土地担保、会員券ビジネス。
1987年 リゾート法(総合保養地域整備法)→2004年見直し。
1989年 博士山ブナ林を守る会設立。1988年12月清水建設博士山リゾート。
1993年6月29日 清水建設上野副社長は石井宮城県仙台市長へ贈賄で逮捕。その後吉野会長が竹内茨城県知事贈賄容疑、22日上山副社長と松本常務が竹内知事贈賄で逮捕。
1995年3月 奥只見発電所・大鳥発電所、湯ノ谷揚水発電所計画。内需拡大公共事業はダム・発電所・林道建設へ。
1998年 北海道アルファリゾート・トマム倒産
2000年 裏磐梯猫魔スキー場倒産(2002年にも倒産)
2002年 磐梯国際スキー場倒産、千葉ザウス閉鎖、10月アルツ磐梯倒産
-----リゾート再生名目企業登場-----
2003年 安比高原、福島箕輪、裏磐梯グランデコ(京急→東急へ)。アルツ星野へ。
2004年 トマム星野リゾート経営へ
2005年 星野リゾート ゴールドマンサックスと組む。
2007年8月 星野リゾート竹富島東部漢那寺を伐採・償却・整地
2008年 6月裏磐梯猫魔を星野が支援。8月沖縄県に竹富島開発申請。9月リーマン。
2009年9月 民主党政権・コンクリートから人へ。不況回復のためなら手段かまわず
2010年 4月10日東京集会(竹富島憲章を生かす会) 2012年開業と星野。
 4月1日付けで、平成22年3月31日の竹富公民館リゾート開発の賛成決議の不存在確認訴訟(那覇地方裁判所石垣支部平成22年(ワ)第38号事件)を「憲章を生かす会」が提起。5月20日午後3時30分、第1回口頭弁論。

2.世界遺産登録への沖縄
 2000年12月2日、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産登録。
  2007年、世界遺産暫定一覧表への追加候補として、文化庁文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会で選定のうえ、ユネスコ世界遺産委員会へ暫定一覧表への追加資産として提出。竹富町に存する文化的資産を文化庁へ提案、竹富町教育委員会ホームページでも掲載。竹富島・波照間島の文化的景観~黒潮に育まれた亜熱帯海域の小島~
 
3.畑と五穀(雑穀)
木村茂光編『雑穀 畑作農耕論の地平』(2003年、青木書店)東京学芸大1946
 雑穀は日本のみ?八世紀初頭。
 中国 六穀・九穀・五穀(アサ、キビ、 、ムギ、マメ)1942福島県生まれ↓
 増田昭子『雑穀の社会史』「沖縄八重山地方では日常会話で雑穀は使用せず五穀という」
 五穀の思想=米がなければアワを食う、アワが無ければ芋を食えばよい心持ち。
 山口徹「近世畑作村落の研究」(2001)、神奈川県。畑作比率が高まると、製糸・織物生産額比率が高くなる(5割を超える)。水田化率20%超えると織物減。
 
4.遠距離通耕とマラリア
小林茂『農耕・景観・災害 琉球列島の環境史』(2003年、第一書房)大阪大学1948
 文化的適応
 1637(寛永14年)人頭税より100年前に遠距離通耕が行われている。
 1530年8月に済州島に漂着した琉球国人7名 

5.賀納章雄『南島の畑作文化 畑作雑穀栽培の伝統と現在』(2007年、海風社)1966年生まれ、吹田市立博物館勤務。

6.竹富島の島立て伝説と畑作アジラ遺構、漢那寺遺跡、まつりと五穀食。

2010年5月 1日 (土)

星野リゾート問題 記事

■竹富島東部、星野リゾート大規模開発問題。

 → 週刊SPA ウェブ版

 → ヤフーニュース4月30日配信

 → ミクシイニュース4月30日配信

竹富島憲章を生かす会のホームページ

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2010年4月30日 (金)

竹富島のアジラ遺構は保護されていない文化財

■沖縄県八重山郡竹富島の島内全域にみえるアジラ遺構は、調査及び保護がされないだけで地球(世界)遺産です。見えて存在するものを、保全保護しないでよいのでしょうか?竹富町教委『竹富島の集落と民家』(2000年)70頁に、竹富島の景観構造として、「アジラとグスクの分布」が掲載されています。星野リゾートの開発予定地にも網の目にアジラ(石積畦)遺構があります。いや、全島にこのアジラ・ネットワークが張り巡らされていることが竹富島を支えたのです。台風などの豪雨から島の表土流出を防ぎ珊瑚礁を守り、飲料水や耕作物を支える地下水、、、降雨を地下浸透させるダム機能(水源涵養機能)、風による表土(畑の耕作土)の飛散を防ぐ、、、石垣アジラ網です。それが集落の家を囲む石垣とすべてつながっている。

 竹富島の中央部には石垣を高く積んだ中に家を置く。雨水は高くした屋敷地から前道に流れ、敷き詰めた白サンゴ砂から地下へ流下。あるいは道が川となり最後に島内の鍾乳洞に落とす。雨水を島外に出さずに島内の地下水供給源となるような設計となっていることがわかる。水の一滴・血の一滴といわれた。

 そうした島中央の集落構成の石垣構造と水の流路設計は、畑地にも応用されている。島内にはすべて網の目に低い石垣が積まれ、畑土が流されたり飛ばされたりしないよう、そして土地境界の意味を持っていた。しかし私は最大の目的は、雨水の地下浸透のためのダム機能であろう、というのが2010年4月11日~13日の現地調査結果です。

 私の奥会津に棚田はあります。また畑でも、水をどのように一時滞水させるないと土壌そのものが水とともに流出してしまいます。そのため小区域な区画を構造とします。竹富島のアジラ図は全島にくまなくめぐらされていることが、とても重要な意味を持っていると感じました。草で見ない場所にもあります。

 竹富島のアジラ遺構は、中央集落の屋敷まわりの石垣とセットの文化財です。雑穀や野菜を守るアジラ、ヒトの家を守る石垣。設計思想は同じです。そして水の島内地下への浸透機能の設計意図がみられます。そのアジラは古くに作られ、その土壌には歴史的な雑穀の種子や遺存体を包含しています。

 竹富島の全島内のネットワーク。アジラ(石積畦)遺構は、人類の遺産だと思います。それが、その機能や意味が究明されずに、星野リゾートに破壊されて(一部は2007年8月に破壊された)いってよいのでしょうか?地球の将来を考えるとき、水が今後の問題になるといわれています。学際的な研究が必要です。

2004年の民博報告書論文(九州芸術工科大池ノ上真一、九州大学西山徳明)の内容が、環境省竹富島ビジターセンターウェブサイトの内容になっています。また2000年に竹富島教育委員会から刊行された『竹富島の集落の民家』(九州芸術工科大学環境研究室・都市環境研究室160頁)が底本。

 『星砂の島』(全国竹富島文化協会)の編集委員長の狩俣氏は開発推進者であるが、同誌の8号(2004年)43頁から、先にあげた文献の筆者の九州大の西山徳明氏が竹富島環境マネジメント型NPOについて書いている。文献等は2000年、2004年の調査がすべての基本になっている。

 日本の古本屋等でも『竹富島の集落と民家』(2000年、同教委)は入手不可能なので、2004年の歴史民族博物館(PDF26頁→)http://bit.ly/cKZSwm 西山徳明・池ノ上真一「地域社会による文化遺産マネジメントの可能性 竹富島における遺産管理型NPOの取り組み」

 西山・池ノ上2004年論文の64頁に、関係解説図があり、文化遺産として「アジラ等」があり、法制度に護られている遺産に入っていない。また59頁の航空写真による竹富島の文化遺産分布図(一部のみ)でアジラは島南西端に明示。この2点が、開発地に遺跡は無いとする基本になっていると想われる。

 竹富島には現在に続く人々は11世紀から移住がはじまったといわれている。しかし日本列島の縄文・弥生時代とは異なる台湾文化圏の影響下にあった八重山諸島には先島先史時代がある。調査が進んでいないため明確になっていないだけである。遺跡が存在しないわけではない。研究者がいないだけである。

 開発に伴う文献調査は「東京」で行われることが多いため、最近の文献や研究結果しか入手できない。しかし現地には多くの研究書が存在する。私は今回の調査前、偶然にも昨年12月、今年の2月に那覇市の沖縄県立博物館で文献調査(苧麻・茅利用)をした。また沖縄県の遺跡地図はウェブ上で理由無く閉鎖されていて検索ができない状態になっている。

 西山・池ノ上(2004)は、先史時代(開発予定地の漢那地遺跡等)後、竹富島では11世紀ごろからヒトの移住がはじまり、集落発生期は12世紀で16世紀初頭までを第Ⅰ期区分としている。

 生活スタイルが漁労中心から農業中心になると、6つの氏族による集落が島の各所に作られ、雑穀や蔬菜の耕作、海産物の収穫を中心とする生活が営まれた。中世の集落は海岸近くや崖上などにも点在、その空間構成は集落内でのヒエラルキーの存在を表していた。→つまり島内に分散して集落があった。

 竹富島第Ⅱ期(16世紀中頃から19世期後半)は琉球王府統治下期。16世紀中頃に島の中央部に集落が統合される。集落の街路が井然型に。この時期耕作物の収穫率を上げるため農地の整備(アジラ構築)、税の織物(布・カラムシなど)の洗練化。

 竹富島 第Ⅱ期(16世紀中頃から19世期後半)台風・塩害・潮害を防止するための防潮・砂防林を島の周囲にめぐらせ、塩気の少ない地下水を確保しやすい島の中心部に集落を配置し、周辺は耕作地(アジラ遺構)を配置し、同心円状の土地利用に行きついたと考えられる。

 第Ⅱ期から現在まで引き継ぐ竹富島の空間構造は「竹富町歴史的景観形成地区保存条例」に基づき策定された「竹富町歴史的景観形成地区保存計画」(昭和62年1月)に明記されている。

 竹富島は面積5.41平方km、外周9kmほど。山も川も無い。そして水に恵まれず、しかしそのことが、島中央部の丘上の風通し良い場所で暮らし、蚊(マラリア)の発生を抑制したと考えられる。西山・池ノ上2004では、水はけのよい地域はマラリア等の疾病を抑制するのに役立った、と記載している。

安渓・盛口『聞き書き・島の生活誌3』(2010年、那覇ボーダーインク)に、奥会津昭和村のカラムシ織りの里開村記念シンポジウムに来村されたことがある沖縄本島の海洋博記念公園の本部長の花城良廣さんの話が出て来る。花城さんは八重山諸島の鳩間島生まれである。

 鳩間島は小さいのに、ひところは400人もいて、広大な土地のある西表島に住まないのか、マラリアがあるからということでした。逆にマラリアの無い鳩間では水に苦労した。今でもうちのお袋は畑の前の庭にもちょっとした容器があるとそれを置き水を貯めようとする。蚊がわくからよせというのだけど。

 八重山の有人島は高い島と低い島がある。隆起サンゴ礁からなる低い島には山や川が存在しないので稲作に向いていない。平坦地が多い低い島の開墾は容易であり、かつて猛威をふるったマラリアも害にもあわない。鳩間島は対岸の西表島にたんぼを持ち遠距離通耕をしていた(安渓・盛口2010)。

 遠距離通耕は八重山地域に琉球王府による人頭税がしかれるようになってからはじまったのではなく、すでに16世紀以前から、蔓延していたマラリアをさける文化的適応ではじまっていたとする考え方もあります(小林茂『農耕・景観・災害 琉球列島の環境史』2003年、第一書房刊)

■前掲書、西山・池ノ上(2004)。竹富島の土中から容易に採取可能なサンゴ石灰岩は多孔質で吸水性に優れることから屋敷の垣や家庭の塀、基礎石などになどに多用され特徴ある景観を構成する重要な要素となった。

 集落レベルでは各屋敷に降り込むスコール(降雨)による大水を素早く前面道路へ、さらには集落外に流し出し、アブと呼ばれる地下鍾乳洞に浸透排水させるシステムが構築された。植物の繁茂が激しく容易に藪化する気候条件下で、通行を確保し蚊(マラリヤ)やハブの害を防ぐため、サンゴ白砂が敷かれた。

 竹富島の家屋地。屋敷は台風に備えるため肉厚な石垣で四周を囲み、防風林を屋敷内の北と東に配置。島には川がなく大半の地下水にも塩分が含まれるため、屋根に降る雨を集めてタンクに貯め、飲用水を確保する屋敷単位での雨水利用の仕組みが確立された。これと掘井戸・降井戸を併用。

 竹富島では、農地は漁労域の管理のための装置や保全の慣習、儀礼、互助システムが生み出された。サンゴ礁の岩盤上に薄く堆積する貴重な腐植土を風や波から保護するため、農地は防潮・防砂林によって海から隔てられ、個々の畑地にはアジラ(畦)と呼ばれる低い石垣によって細かく画された。

 また竹富島内では、水田耕作ができないため、人頭税として納める米は、マツフニ(松舟)と呼ばれるくりぬき舟やサバニで西表島に渡ってつくった。漁労域の管理としては海の畑ともいわれるイノーの漁場に各戸に伝わる漁場があり、一部は今日まで継承されている。

■2005年に那覇・ボーダーインクから発行された高宮広土『島の先史学 パラダイスではなかった沖縄諸島の先史時代』著者は那覇生、1986年人類学学士(トロント大学)、1988年考古学修士(カリフォルニア大学ロス校UCLA)1997年人類学博士(UCLA)。現在、札幌大学文化学部教授。

 145頁に、「この10年程はフローテーションという方法で、植物遺体の回収」をしている。フローテーションのいうのは土壌サンプルを水に入れ、そのなかにある炭化物・炭化種子を浮かせて回収する方法。浮いた植物遺体は2ミリ0.45ミリのフルイを重ねたところで回収する。

 フローテーションを導入した結果、世界中のいろいろな地域で、それ以前には検出されにくかったあるいは検出されたことがなかった植物遺体が回収されるようになりました。この方法で回収されなければ現段階の技術では沖縄諸島の先史時代遺跡から植物遺体を回収することは難しい。

 沖縄県内で、土壌の分析・フローテーションにより雑穀の種子、イネの種子などが確認されている。現在の考古学は、遺物が出る、だけではなく、その土壌分析も主要な調査項目になっている。竹富島は畑作・雑穀栽培については島立て伝説を含めて、有効な先島の農耕情報を土が記憶している。

■畑作文化のあり方、それを祭祀する仕組み、アジラ遺構がすべての基本にあります。風と雨から島を守るシステムであるアジラ・グスク遺構。沖縄県の世界遺産登録のウェブサイトにはアジラ遺構は一言も触れられていません。

 → アジラ遺構

星野リゾートによる開発予定地(2007年8月に6.7ヘクタール伐採・焼却・整地)には、沖縄県知事より、オカヤドカリ、キシノウエトカゲ、ツマグロゼミの生息地であるので、調査及び配慮するよう2008年夏に指示がなされていた。しかし前年にそれら生息地は伐採・焼却・整地している。

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水の流れた跡があるサンゴ砂の道(竹富島)

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アジラ遺構(畑を区画する石垣)

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2010年4月25日 (日)

コウモリ食

■環境省竹富島ビジターセンター資料より。

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2010年4月23日 (金)

週刊SPA!3228号(4月27日号、現在発売中)

■4月20日(火)に全国発売された扶桑社『週刊SPA!4月27日号』3228号で紹介された沖縄県八重山郡竹富島の開発記事(PDF) → 1ページ目  →2ページ目

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2010年4月20日 (火)

竹富島のアジラ(グスク)遺構

■1996年10月14日に東京都新宿区新宿2-11-2YMビル3F有限会社眞木(代表取締役田中文男)が月1回主催する東京ソルボンヌ塾 塾長 宮澤智士発行編集、正進社印刷で、『竹富島に何が可能か』という新書判型の127ページの本に竹富島固有の畑の石垣積みネットワーク「アジラ遺構」の島内詳細図が掲載されている。

 真島俊一「島に学び、竹富島とは何かを問う」は、1996年6月24日に東京ソルボンヌ塾の研究会で「観光開発と保存」として真島氏が発表したものの速記録をもとに編集し、表題を変えた。

 この塾長であり本を編集した宮澤は長岡造形大学教授。真島氏は東京都日野市のTEM研究所。武蔵野美術大学建築学科卒で宮本常一に師事。

 1975年9月に竹富島を18日間調査。10月に30日間調査。その後、調査に入り、そのとき最良の本に出合ったのです。『竹富町誌』上勢頭亨さんの書かれた本のことで、竹富島に伝わる様々な伝承、慣行、民話などが載っています(58ページ)。それでドメス出版から『生活学第5冊』(1979年)に載っている「竹富島」です。調査チームでのべ360泊した。

 『季刊民族学』(第2号、1977年刊)に民具等の写真が掲載されている。

■66ページに「アジラとグスクの分布図」があり、そのキャプションには、

 竹富島の中央に黒く塊るのはグスクの石垣である。蜘蛛の巣状の点線はアジラの石垣である。アジラは畑の畦でもある。島人が、耕すうちにアジラの背は高くなった。南に多い。点々と見えるのは井戸と御嶽の位置で井戸は32,御嶽は32ある。昭和52年(1977)現在の姿である。 

 70ページには、竹富島にはマラリア以降のそういう生活センターとしての文化財がいっぱい残っている。しかも、熱帯に生きる植物の区分けや、海辺のくらし方のルールが形になって見える島ですから、漁村であれば海辺に寄るんですが、海辺から(島の)真ん中に村々が集まってきたということに関しては、井戸水の淡水性や農耕中心の生活、平らな島で台風を逃げる対策など、いろんな理由があると思います。やはりアジラとグスクと民家と集落という関係を自然と対応した格好で形に見せてくれているのがこの島でしょう。

 65ページには、

 竹富島は全島、珊瑚礁で、熱帯に入る。敷地を囲うことは、敷地から外は厳しい自然環境だから、この中は植物など、入ってきていいものと悪いものがあって、その区別のためにグスク(アジラ)を使っている。使い方は大きく二つに分かれます。集落で石垣に使っている部分と、畑の中から出てきた山石はウロに置いて、畦の石垣にし、囲いの中に土を残して畑とする。三尺四方でも土があるとサツマイモが育つのです。地味がいい場所は集落の北側のほうだけで、あとはほとんど石灰岩です。この図面にある破線はみんな石灰岩を積み上げたところです。石垣が高ければ地味は良くないところなのです。そしてすり鉢みたいになったのが石積みの底に土を残す。土はものすごく貴重品なのです。

 グスク(アジラ)つくりは結果として石垣となるが、石垣をつくることで熱帯の自然世界との区分けが成立した。野性のままの自然と人々のくらしやすいようにコントロールする集落形式が成立していく。そのために、石垣は必要不可欠な仕掛けだった。自然の囲い込み方のルール をグスク(アジラ)で大きく畑と集落域に分け、くらしの場にしていく。さらに道、御嶽、井戸などの共同の区分けを追加して竹富島独得の景観が形成されたのです。

■この書籍の図面等が環境省竹富島ビジターセンターの展示およびウェブサイトの底本(引用元)となっている。2000年刊行の『竹富島の集落と民家』(同町教委発行)もこのアジラ・ネットワーク図を引用している。これらかつての畑跡地(アジラ)は、同町が「歴史的景観保全地区(生産景観形成ゾーン)」として建物等の建設を規制している。

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↑2000年、竹富島教育委員会発行『竹富島の集落と民家』

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↑黄色丸印が星野リゾート開発予定地(2007年8月伐採地、アジラ破壊地)

↓2010年4月11~13日菅家博昭撮影。竹富島のアジラ遺構(畑の石垣)。

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